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読書感想文の書き方で人生が変わる! - 提供「価値辞典」

とてもじゃないけど、あれは読書感想文なんて代物じゃなかった。今思えばそう思えるのですが、当時は読書感想文を書け!という降り掛かった火の粉を振り払うのに、精一杯、目一杯、とにかく一杯一杯だったのです。

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読書感想文の書き方


子供の頃、読書感想文にはよく泣かされたものです。

「この本を読んで、読書感想文を原稿用紙5枚にまとめて書いて来なさい」と先生に宿題を出されたら、「さあ来た、こりゃ困ったぞ、何とかして5枚の原稿用紙を埋めなければ」と憂鬱にさせられたのです。




文字を大きく書いて行を埋め文字数を稼ぐか、それとも1行づつ改行してスペースを稼ぐか、とか、5枚目の原稿用紙には2〜3行も埋めれば5枚目としてカウントしてくれるのだろう等と、如何に楽をして原稿用紙を埋めるのか、このことだけに腐心したのです。




それより以前には、本を生真面目に本当に最後まで読み切ってしまうか、それとも、要所だけを摘んで、さも全て読んだかの如く書いてしまおうか、などと暫し葛藤もしたのです。

それよりも、もっと以前には、何もせずに放っておけば、もしかしたら読書感想文の存在は忘れ去られてしまって何もせずに済むんじゃないか等と淡い期待も抱いたのです。




本を実際に最後まで読むかどうかは、さておくことにして、試行錯誤の末に編み出した書き方の巧妙なテクニックは、当然の結果として読書感想文の本丸へと及びます。

本に書かれていることをそのまま抜粋して丸写しする方法や、それには少し気が咎めた場合には、少し労力を割いて箇条書きに改め行を埋めるなど、とにかく与えられたミッション(任務)をやり遂げることで頭が一杯。




粗筋を3行程書いた後に、「私はこう思いました」と1文付け加えたり、または、本から丸々抜粋した3行程の後に「ここは違うと思った」などと付け加えるといった具合。

とてもじゃないけど、あんなのは読書感想文なんて代物じゃなかったのです。

今思えばそう思えるのですが、当時は降り掛かった火の粉を振り払うのに精一杯、目一杯、とにかく一杯一杯だったのでしょう。




ひと言、「読書感想文の書き方で人生が変わるよ」とさえ教えて頂いていれば、当時の身の入れようも違っていたのでしょうが、教える側にしても、そのような確信めいたものの持ち合わせが無かったのですから仕方がないですよね。

「本を読んで人生が変わった。」
こんな話は良く聞く話で、「然も有りなん」と思えるところです。




その人生が変わる程の感動を書き綴る読書感想文とは、己の古い価値観をスクラップして新しいものを創造する作業となる筈なのですが、先生にとってみれば単なる仕事のひとつにしか過ぎず、生徒側にとってみれば単なる嫌いな宿題のひとつにしか過ぎなかったのです。

とどのつまりは、「これが不幸の始まりだった」と言えるかもしれませんね。




気が付けば、苦労を重ねて編み出したテクニックも、すっかりと我が身に染み付いている訳で、例えば、消費税引き上げに関する情報に触れた折にも、「2010年代に、消費税が2桁に上がるんだってね、困ったもんだね」なんて呑気(のんき)な読書感想文を頭に描いて、実際に口に出し、そして他愛も無い会話に終始したりするのですから。




消費税引き上げの情報からは、「国の財政破綻の穴埋めは、貴方にして貰う」と、そう言っていることを読み取らなければならなかったのです。

根本を正確に読み取ることが出来れば、そこから派生する読書感想文も違ったものへと変わって行くのです。




我々は子供の頃、どのような読書感想文が良くて、どのような読書感想文が悪いのかを、多少では有りますが先生方から教えられています。

策を弄して書き上げた作文のようなものは、結局は悪いものの代表例に掲げられ、「本を丸写しにしたものはダメだ」と衆目に晒され恥をかかされたものです。

筋書きから飛躍した論理を展開し、本とは全くの別物に作り上げたような場合には、素晴らしいとされ賞賛されたのです。




子供の頃のように、「消費税が2桁に上がるんだってね」と粗筋を丸写しにした後に、「困ったね」とひと言感想を付け加え、しかも、そのことを実際に話題にするような場合には、これは明らかに悪い読書感想文の例とされ、一方、「国は、あなた達に責任を取って貰う」と言っていることを鋭く読み取り、「では、自分はどのように考えるか」と付け加え、行動に移すような場合には素晴らしいとされたのです。




「2010年代に、消費税が2桁に上がるんだってね。私は断固反対だ。」

「国は、あなた達に責任を取って貰うと言っている。では、自分はその責任を取っても尚、余裕を持って生きて行かれるように準備しておこうじゃないか。」

上のふたつの読書感想文の違いが、お分かりになりますでしょうか。




不思議なことに、素晴らしいとされる読書感想文が書けるようになれば、子供の頃に、あれ程嫌がって躊躇していたことをしなくて済むのです。

あれ程嫌っていたこととは、そう、本を最後まで読まなくてはならなかったことです。

それをしなくて済むのです。




高齢者の医療財政破綻との記事に触れた場合、全て読むこと無しに、大体何を書いているかが読み取れるようになって来て、更に、そこから「これからは、自分で老後の準備をしなければならないのだ」ということを抽出し、次に、それに対してどのように考えるか、そして、どのように行動に移すことが出来るか、等と思考の流れはスムーズに進むのです。




読書感想文1:


幸せを求めることに異論はありません。
しかし、幸せが家族にだけあるという固定的考えはナンセンスだと思います。

少なくとも、私は今の自分の仕事に生きがいと幸せを感じています。
縦割り横割あまりにも人間の感情を無視した考えではないですか?
多くの人は、もっと複雑に悩みや考えを持っていると思います。




読書感想文2:

「幸せ」を求めるということをやたら強調しているように感じたそれはどうなんだろう。




かつて、上のようなふたつの読書感想文(ご意見)を頂いています。

他人が何を考えたとしてもそれは自由であり、自分の人生とは関係がないので放っておく、というのが現実ではありますし、ここで、他人の読書感想文にとやかく言うのは気が引ける、というのも有るのですが、しかし、そうなってしまうと、我々は一生誰からも読書感想文の書き方を教えて貰えないと、そういうことになってしまうのです。




小さい頃、先生方から若干教えて貰ってはいるのですが、でもそこには、「自分の人生に如何に生かすべきか」という肝心な視点が欠けているのではないでしょうか。

他人の考え方を採点するような不遜な行為に、お怒りになられる方もいらっしゃるかもしれませんが、誰もしないことへの挑戦とご理解して頂き、ご容赦願えればと思います。




まず最初に、個人が持っている考え方や、世の中に溢れる様々な情報は、それぞれがそれぞれ一冊の本を形成しているとお考え下さい。

個人で有れば、差し詰め、その人の生き様を書き綴った「伝記」のようなものといえましょう。




その「伝記」に対して、「おかしい」とか「どうなんだろう」と抱いて、果たして、そこから何が生まれるというのでしょう。

他人の生き様は、個性豊かで誰からも犯されることなく、尊重され得るべきものです。




これらに対して、幾ら疑問を呈してみても、自分の人生には何らプラスにはなりませんし、「おかしい」、「どうなんだろう」と言ったところで、それ以上の発展は無いのです。

また、「消費税が上がる」、「失業率が上がる」、「リストラされる」等という情報の本に対して、「おかしい」、「どうなんだろう」と思ってみても、これもまた仕方がないことですね。




「本に対しては、後ろ向きの疑問や不平不満は一切言わない。」

感想があるとするならば、「何も読み取れなかった」のか、「何か読み取れた」のか、のどちらかしか無いのです。

読み取れるものが有れば、そこから「どのように考えるか」が始まり、また、自分の考えが浮かんで来たのなら、それを己の生き方に反映させるのみなのです。




他人への感想を三行程述べた後、自分の考え方を一行程度付け加えるような読書感想文人生を、数十年と繰り返して来て、我々の人生の何がどう変わったというのでしょうか。

自省を込めれば、繰り返して来た結果の不甲斐ない体たらくが、今現在の己自身ということでしょう。

もうそろそろ、気付いても良い頃です。




他人への感想を三行書いても、自分の人生は何も変わらず、そんなことは時間の無駄であると。

他人の生き様に触れ何を考えたかを自分の人生に生かす。これこそが、素晴らしい読書感想文というものではないでしょうか。




「そうですよね、幼き頃の先生方。」
「今までのような、読書感想文では駄目ですよね。」

世の中や他人に対して、「あそこが悪い」、「ここが違う」と散々述べた挙句の果てに、「私は違うと思います」と、ちょこっとだけ付け加える。

「このような読書感想文じゃ、書き直しですよね。」




「書き直し?」
いや待てよ、書き直しなんて一度も言われたことがが無いな。

書き直しなら、当時実際に言われている筈だ。

言われてないということは、結局のところ、どのような読書感想文でも出しさえすりゃ良かった訳なんだ。

どんなに稚拙なものだろうと、実際、受け取って貰っているんだから。




もしかすると、「感想」なんてものは、思想信条に係わる領域のものであるとされていて、どのようなものであっても、全くの自由である、との方針が出ているのかもしれない。

全くの自由どころか、生徒がある情報に触れ、どのように感じたかなんていうのは、指導してはならない、アンタッチャブルなのかもしれません。




また、生徒が物事の根本を押さえられているかどうか等も、教えてはならない事柄なのかもしれません。

それとも、何らかの感想さえ持ち得ることが出来たのなら、それは教育上何も問題も無いとされているから、触(さわ)らないのかもしれません。




もっと穿(うが)った見方を教える側にして見れば、教える側の方が物事の根本が何であるかを押さえられていないし、どのような感想文を書くかで人生が変わるとは認識できていないのかもしれません。

試(こころ)みとして、読書感想文の題材を、「何故、学校で読書感想文の宿題を出しているのですか」に求めて、それについて書かせてみれば面白いような、そんな感じが致します。




果たして、たかだか数年しか生きていない生徒に、「読書感想文の書き方で人生が変わる」などという“解”を見付け出すことが出来るでしょうか。

数十年と生きて来た先生ではありますが、「何故、学校で読書感想文の宿題を出しているのですか」という読書感想文の宿題を出すことに、解を見付け出すことが出来るでしょうか。




機会があれば、先生方が書いた読書感想文を一度読んでみたいような、そんな気持ちにちょっとさせる考察となってしまいました。


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