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上司が無能!ああ、大いなる無能なる才能よ?大塚国際美術館!

上司が無能!ああ、大いなる無能なる才能よ?大塚国際美術館!人知れず徳島県鳴門市に大塚国際美術館がある。別に、そことは縁もゆかりも無いし、お金の遣り取りがある訳ではないが、とにかく素晴らしい、と言わざるを得ない。

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上司が無能!
ああ、大いなる無能なる才能よ?大塚国際美術館!


無能上司!
大いなる無能なる才能よ
大塚国際美術館!


上司が無能なのか?

いや部下が無能なのか?

いや社員全員が無能なのか?





人知れず徳島県鳴門市に大塚国際美術館はたたずむ。

そことは縁もゆかりも無いし、別に、お金の遣り取りがある訳でもない、また賛美することを頼まれた訳でもないが、でも、とにかく素晴らしい、と言わざるを得ない。

まずは安くはない入館料に多少は凹みつつ歩みを進めた。

すると、早々に我が死んだ鯖目に飛び込んで来たのは、巨大なシスティーナ礼拝堂?いや、システィーナ礼拝堂壁画の複製だ。

初っぱなに、とにかくガツンと度肝を抜かれ、この時点で既に入館料の元は取った。

そこから始まる日本最大の常設展示スペースだが、とにかくだだっ広いことこの上なし、いや長いと言ったらいいのか、なめてもらっちゃー困るな、半日はゆうに費やす算段はしておけ、ってな具合に。
システィーナ・ホール




あれ、これ歴史の教科書で見たことがあるな。
あっ、ナポリまで行かなきゃ見ることができない、アレキサンダー大王が描かれたモザイクだ。

あっ、この赤いおっちゃんは、「飛び込む男」だろ。
これは美術の教科書で見たように思うな。

かように古代の壁画に始まり、世界25カ国に点在する190箇所あまりの美術館所蔵の西洋名画1,000点超が、ここには集まり、オリジナルと同じ大きさの複製という形で展示されてるのだ。




複製?
複製って、コピーってこと?
複製とてバカにしちゃーいけない。

複製をバカにするなら、我が方のホームページに始まり、世界中の華やかなりしHP文明や、新たに現われしこの世の救世主、ブログなんてものは、すべてバーチャルな虚業になっちまう。




確かに、画家には絵の才能がある。
その集積である絵画にも大いなる価値はある。

でもその反面、それを飾る美術館は、どう見たってただの箱だ。
何の才能もありゃしない。

ただ、高い金を払って、高名な画家の才能を買い集め、その圧倒的価値に頼むのみ。

我らは、専門家である画家の価値に触れたくなったら、そんな美術館のある現地に直に赴いて、拝むしか道はない。




でも、大塚美術館には世界中の美術館が集まってる。
居ながらにして、世界中の画家の価値を体験することができる。

いや、大塚美術館が成し得たことはそんなチンケなことじゃない。

ここは、単に絵画を集めただけじゃなくて、世界中の画家の絵を如何にして披露するかという、新たな価値の創造にこそあるのだ。




絵画の見せ方の裏には、たくさんの人達の知恵と努力と技術と個性が感じられ、とてもじゃないが偽物呼ばわりなんかは出来ない。

たしかに、画家の才能に直に触れてみたい人にとってみれば、偽物は偽物と映ることだろう。

でも、披露側のサプライヤーの英知に触れてみたい場合は、バーチャル社会の大親分、大塚国際美術館へ行け、だろう。




大塚国際美術館の魅力は、才能なきただの箱の、新たな才能の発揮どころにあり。

他の美術館みたいに、お金が有り余ってしょうがないんなら、他人の才能を買い漁ってしまえばいいだけの話しなんだけど、でも、他人の才能を買うことのできない我ら凡人は、自らの表現能力を発揮して、新たな価値を生み出すしかない。




ホームページも同様である。

我らは、世の中の才能あるもの、価値あるものを拝借して題材として取り扱うが、その次には、ホームページそのものの持つ才能を発揮して、見せ方を工夫し、きらびやかに飾り付け、個性的な表現にて価値を作り出す。

馬鹿にしてもらっちゃー困るな。
我らは、りっぱに自力発光できるんだから。

でもまだ、それって所詮はコピーだろ、って言う諸兄に対しては、コピーはコピーでも、その見せ方に価値ってもんがあるんだぞって、我らHP作者やブロガーや、創造者の頂点に立つ大塚美術館はそう語るのだ。




我らは何かの専門家じゃなきゃ生きてる価値がない。
何かの専門家じゃなきゃ生きてる意味がない。
と、そうは思いませんか?

みなさん。

差詰め、学生さんのあなたは、勉強の専門家ってとこだろう。
そして、「私は、勉強の専門家です」って、堂々と言っていただきたい。

差詰め、サラリーマンのあなたは、命令されたことは何でもする、命令された所へは、例えそれが世界の果ての辺境の地だって赴くという、よろず請負の専門家だってところだろうか。

だから、「私は何でもやる専門家」だって堂々と言っていただきたい。




「あの、教授!」

「ジャンルを絞り込むから、専門家って言うんだと思うんですけど、サラリーマンは何でもやるって広すぎませんか。」

「そんな細かいことをいちいち言うんじゃない。」

「彼らは新種の専門家なんだから、あまりいじるんじゃない。」




時代は変わった。

従来のカテゴリーだけを専門家だって呼んでたら、専門家なんて、たちまちの内に絶滅危惧種に指定されちまう。

とにかくここは、何にも専門性が無い人間であっても、何か理屈付けしてでも専門家にしちまえ。




んー、「オスはメスを守るもの」って、こんな感じはどうですか?
オスはメスを守る専門家か。

では、「女は弱虫が嫌い」って感じはどうだろう。
「女は臆病者は嫌い」って感じではどうだろう。

女はマッチョ好きの専門家ってことでどうだろう。




これもどうかな。

「オスは敵に立ち向かって戦え、そして女を守って死んじまえ」って、こんな感じはどうですか。

差詰め、「男は女を守る専門家」なんだー。
強い敵に立ち向かって、命を賭して女を守るんだー。




本当に耳障りの良い言葉だ。
「男は強くあれ」かー。

かように、男は女を守るために強者に立ち向かい、本来ならば散らさなくてもよかった命を散らして来たのか。

「あなた男でしょ、あいつをやっつけてよ」と言われれば、ビビリの我らも、いい格好をせざるを得ない状況に追い込まれる。

本来の性格通りを、世間一般が許してくれるのなら、弱虫の我らは、「私は戦いたくはないから逃げます」という呪文を唱えて命を拾うのだ。

そんな女の美意識は、刺し殺されてもいいから、強い者や、面倒な者へと立ち向かえ、男は女のために戦えということか。

男が刺し殺されて後、女は自分の哀れな境遇を嘆くのだ。




逆もある。
そりゃ、もちろんある。
男の美意識ってもんが。

好戦的で血気盛んな男は、戦ってなんぼ、という具合で、鉄砲玉のように出たっきりのなしのつぶてと来たもんだ。

女には黙って留守をさせた。




男は戦うことで、女に相談なんかはしない。
いつも自分ひとりで決めるんだ。

と言うか、カーッと一気に頭に血を上らせて、正気は失い、やにわに戦闘に突入し、人を殺(あや)めたり、己の命を散らしたりして、女を困らせ尻拭いをさせて悲しませてばかりだ。

最後に泣くのはいつも女だ。
いや、最初から最後まで女は泣きっ放しなのだ。




いや、男女問わず、人間は人を傷付けるものだという見方も一方にはある。
我らは人を傷付ける専門家だったという見方だ。

会社や社会には、理不尽なことだが、消極的に又は積極的に人を傷付けようとする人達があまた存在する。

誰の何の利益にもならないのに、不条理の業火の渦を撒き散らす人間が。

結局、究極的には、彼らが居るような会社や社会を選択し、働いたり、そこに住んだりしている我らの自己責任ということになるんだろうけど、自己責任とは本当にシビアで厳しいものである。

で、自分の責任なんだから、自分で自分のことを面倒みるしかない、という発想に至ることとなる。




でも、我らは、意志が弱くて決断力も行動力もないし、おまけに頭も悪いと来てるから、この会社やこの地域に居続けることとなる。

で、思わず愚痴りたいとなれば、究極的には、「会社を辞めたい」とか、「どこか遠くへ行きたい」となるが、なかなか決断できない願望を口走ること、なんと哀れかな。
で、そんなこと愚痴ったところで、「辞めたきゃ辞めれば」、「消えたきゃ消えれば」と、冷たく突き放されることになる。

それで、我らは愚痴らずに、自分の腹の中に不満を溜め込み、自分自身で消化するようになるのだ。

愚痴っていいなら、みっともないけど、我らは愚痴ってみたいのだ。
愚痴ってる我らを受け入れてくれるなら、是非そうしてみたい。
と、そう思う。




サラリーマンよ、あんた、ゼネラリスト(スペシャリストの対義語)っぽくなってるつもりで居るが、そんな会社のゼネラリストになったところで、何の価値もないってことぐらいは知ってるんだろ。

我らはやっぱり、何かの専門家でなきゃ生きてる価値がないんだってことも、薄々感じてるんだろ。

で、我らが、今現在この会社に居続けているという現実があるのなら、自分の専門性もこの会社にまつわるものであることが、限られた人生の有効利用であることも知ってるんでしょ。




で、考えた。
自分は果たして何の専門家なんだろうかと。

サラリーマンか?
いや、そんなものは専門家とは言わない。
サラリーマンなんてもんは、何の価値もない。

己にとって何の興味もない無価値なものに、時間と労力をさくのがサラリーマンの仕事なんだから、サラリーマンの専門家だって言い張ったところで、それはやはり、自分的には何の価値も生み出さない無意味なものとなるのだ。

で、考える。




サラリーマンは、自分の嫌いなことでも、他人の忌み嫌うことでも、何でもやる専門家だ、と。

これならいける。

世の中も、ただのサラリーマンを、りっぱな専門家に位置づけられるような、画期的なマジック的発想を待ち望んで来た筈だ。

でも、東大法学部をはじめ、あまたの秀才がサラリーマンにはなって来たけど、ピーターの法則ばりに、みんなは一様に無能な人間へと化け、うんともすんとも言わなくなってしまう。

因みに、ピーターの法則とは、みんな等しく、己の能力の限界にまで出世し尽くしたら、その位置にとどまって無能力者へと変身し、働かなくなるという法則のことだ。




サラリーマンだって、表現することは可能である。

そんな才能を活かして生きるも、蓋をして日常に埋もれるも、我らの勝手だろう。
我らには画家の才能は必要ない。

画家の才能が無いからサラリーマンをやっている訳だ。
そう、もともと生まれた時から、そんな才能は備わってない。




サラリーマンは、無能力が上に備わった、何でもするということを能力とすればいい。
何でもすることを表現して歩けばいい。
何でもすることを創造すればいいんだ。

そして我らブロガーは、情けないサラリーマンだって、りっぱな専門家なんだぞって表現すればいいんだ。

我ら無能力者は、表現するという才能こそ発揮せよ。























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