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新価値経営理念!新しい発想のビジネスの仕組み!会社を興す
新価値経営で会社を興す
ワンパターン発想
日本は、模倣の文化、真似る文化、なるものを何百何十との年の間、繰り返して来ました。
真似るものがなくなった1980年代は、真似ることが骨身に染み付いてしまっていた日本人は何もで出来なかったのです。
このように、思考も行動もフリーズしてしまった状態のことを、「失われた10年」という言葉で表現しているようですが、果たしてそれは、文字通り10年で済むのでしょうか。
恐らくは、20年、30年・・・と、真似ている限りは永遠に続くことなのでしょう。
今求められているものは、新しい考え方や新しい仕組み、新しい物、新しいビジネス等を創り出す発想を持った人間、そして、それらを基に行動に移せる人間なのです。
思い起こせば小学生の時から
小学校の頃、「先生の言うことは守りなさい」とただただ言われ、そしてまた、ただただ言われるがままに行動して来たものです。
「人間を評価する基準は、和と知識の量の2つである」と、掻い摘(かいつま)んで言ってしまえば、先生の意図したことはそうだったように思います。
「和」とは、人と同じことをしているかどうかです。
「同じこと」とは、個性的ではないということ、没個性ということです。
要するに、「没個性先生」の「没個性常識」に見合うかどうかで判断されたということです。
「知識の量」とは、覚えていれば100点、覚えていなければ0点、これ以外の補足説明はありません。
100点の生徒ができる人間であり、0点の生徒はできない人間だったのです。
没個性家庭
小学校で「没個性先生」に、真似ることを習い、家庭でもまた、「没個性両親」から真似ることを教えられました。
学校が嫌であっても、皆と一緒に通い続けること。
良い大学に行って、サラリーマンになること。
仕事は、商売人よりも、安定したサラリーマンを選ぶこと。
サラリーマンになれば、課長や部長になること。
老後は、年金生活をして趣味などに興じること。
それらが、生きて行く唯一の道であると、親は、そこまで見通して言っていたように思いますし、小学校の先生もまた実際に、他人との相違点を矯正してたのです。
没個性スパイラル
そうやって育ったきた生徒は、やがて人の親となり、また、学校の先生となりました。
学校にも、職場にも、家庭にも、「真似ることこそ人生」とする人間が溢れかえっています。
我々は、経験したことがないこと、教えられていないことを、当然のこととして次世代に伝えることは出来ません。
頭の中のどこにも、今までの環境を変える手立ては存在しないのです。
このように、何世代にも渡って我々は、物事を考えない人間を創り出すシステムを、完成させて来たのです。
アメリカでは何を教えるのか
すべて、アメリカが行なうことが良い訳ではありませんが、一体何をどのように教えたら、あのような個人主義者が生まれるのだろうか。
そこで、ちょっと幼稚園を覗いてみましょう。
登園したその日、子供はまず今日何を学びたいかを、決めなければなりません。
決めなくても良いけれど、決めなければ、そのまま誰も相手にしてくれません。
先生から「これをしなさい」とは、決して言われないのです。
自己の才能を伸ばすためのアドバイザー的存在が先生であって、自分がやりたいことの決定は自分自身でしなければならないのです。
生徒が思ったこと、それを実現させてやることを第一として、先生がアドバイスしたり、手助けしたりして行く内には、小学生にして、コンピュータープログラムを作ってしまう天才や、会社を起こしてしまう豪傑も現れて来たりもします。
中学生ともなると、会社を興すだけでなく、株式を発行し、どんな商売をして、何を作るなどを討論しながら競い合うプログラムを行なったりもします。
やれば出来ることを学んだ学生は、世の中に出てもチャレンジをし続ける訳です。
謂わば、慣性の法則、人間版ですか。
一方、日本の学生は、大学を出ても株式とは何か、会社を興すにはどのようにすれば良いのか、等をまったくと言って良い程知りません。
そんなことよりもたちが悪いのは、チャレンジもしていないのに、「やってもどうせ出来ない」などという思想が身に染みついてしまっているのです。
アメリカと日本、独創的なことをする点については、もはや競争にはなりませんし、絶対的な分母数の桁が違います。
日本でチャレンジ出来ている人間は、学校教育や家庭教育に毒されなかった、一部の突然変異だけなのです。
または、恐らく、家庭に「やればできる」という雰囲気作りをする人間が偶然にも居た、稀な存在なのです。
新価値経営
現在の会社経営は、物価値経営(ゼロ価値経営)と表現することができましょう。
物の価値、すなわちお金を基準にした会社経営です。
会社は謂わば、お金を生み出すシステムであり、その生み出されたお金を社員に分配するシステムなのです。
社会的責任、社会への奉仕などと、お金に関係のないことを標榜していても、土台に金儲けがどっしりと座っているからこそ、二次的に附加できることなのです。
ボランティアや、人間的温もりのある繋がり、等と言ったところで、金儲けがあってこそ成り立つものなのです。
いつからそうなったかは定かではありませんが、日本人は、金儲けを卑しいことと感じている人が多いようです。
生活のためと称して、好きでも嫌いでもない、たぶん嫌いかもしれませんが(もしかすると好きか嫌いかなんて考えたことがないかもしれません)、少しのお金を得るために我慢をして仕事をしているのです。
「生活のために嫌いなことをしなさい」とは誰も言っていませんし、誰からも言われてはいません。
「生活のために、安く定まったお金、自分を安く定めなさい」とは、誰も言ってはいません。
それなのに、安く定まったお金を得るために、我慢をして働いているのです。
安定した生活のためと称して。
お金を得る方法は、無限にあります。
自分のやりたい方向の仕事で、儲ける道も探せばいくつかある筈です。
それをせずに、安定(安く定まった)したお金のために、嫌いなことをして、「生活のため」と自らを誤魔化す。
キレイ事を言っても、結局のところ、最も忌み嫌っているお金儲けのために仕事をしているのと同じじゃないですか。
それなのに、拝金主義的商売をしている輩をみて、卑しいと感じ、私はおまえらとは違う、生活、家族、趣味のために働いているのだ、と公言して憚りません。
卑しいという言葉を借りるなら、自分を誤魔化してお金を拝む輩(サラリーマン達)こそ、最も卑しい存在だと言うことができるのです。
ここまでで、会社も人も(国家もそうです)、金儲けを基準にしていることを確認して頂きました。
これらは、どうにもならない厳然たる事実です。
これを否定する人がもし居るとすれば、その人は日本にいること自体がおかしくなります。
そのような人は、社会主義国、もはや世界にそのような国は無いと思いますが、そこへ行くか、または、自らで、そういうシステムを創り出すしかないのです。
このことが土台にあって始めて、会社は次に、社会に貢献できる商品を売るなどの価値を、付加できるのです。
あって始めて、人は次に、誤魔化しの生活のためとか、趣味に生きるためとかの、言い訳を付加できるです。
さて、ではその儲けたお金を、会社は何を基準にしてサラリーマンに分配しているのでしょうか。
従来は、その会社に忠誠を誓って何年貢献してきたか、などによってお金を分配してきました。
現在では、結果主義(幾ら会社にお金をもたらしたか)で分配したり、成果主義、お金の形では計れなくても新市場を開拓したなどの成果で分配する新たな考え方が流行っています。
流行りと言えば、企業価値極大化とかキャシュフロー経営などの企業コンセプトも大流行りです。
一方、分配される方は、何年会社に勤めたか、課長ができるか、部長ができるか、などではなく、どんな能力があるのか、何をするのか、などで測られるようになってきました。
しかし、ここまでの発想で精一杯です。
今の会社の枠に入っている人間が、考えられることの限界なのです。
これ以上を考えるとすると、会社の枠組自体を壊さなければならないため、そのような発想は頭の片隅にも浮かびようがありません。
現在の結果主義などの流れを突き詰めると、結果を生み出すことができる能力による結合がお金を儲ける単位であって、能力の有る無しを問うていない会社なんてものは単位には成り得ないのです。
たまたま、その集合体が会社組織を創り出すことはあっても、会社組織自体は能力の結合体を生み出さないし、生み出すには規模が小さすぎます。
能力というものは、自分の最も得意とするもの、最も好きなものに発揮されます。
発揮することができる能力に基づいた自分の最も好きなこと、得意とすることで結びついた集まりがお金を生み出す、これを新価値経営と勝手に名付けてみました。
たぶんこのような考え方は、会社の枠にはまりきった会社人間からは出てこないのでしょう。
会社、会社人間は壊される側の立場、守る側の立場、発想となってしまうからです。
冷静になって素直に考えてみれば、個人個人が自分の能力をお金に変えようと思えば思うほど、自然と枠による結合は無価値になり能力による結びつきを求める筈なのです。
ゼロ価値人生
お金を基準にした人生を送る人間は、ゼロ価値人生、すなわち価値をどこにも置いていない不毛の砂漠のような一生を送る羽目になります。
また、彼らの寄り集まった会社組織も、当然お金以外に価値を見つけようがありません。
従って、ゼロ価値人間の集まった会社はゼロ価値経営を行なってしまうわけです。
ここでは、キレイ事ではなくお金儲けは必要だと申しました。
それが絶対に必要なものであるならば、例えば生きていく上で絶対に必要である水・空気の存在と同じように価値はゼロなのです。
生命を維持する上で価値がないと言っているのではなく、自分らしい人生を送るのに「水を価値として生きる。」、「空気を価値として生きる。」、「お金を価値として生きる。」などは価値とはなり得ないと言う意味です。
それでもなお、「お金を価値として生きる。」と言うのであれば、強い日差しのなかを木陰(楽)を探して生きている、生きるために生きる、死ぬまで生きる的な一生を送っている動物と同じと言えるでしょうか。
御存知のとおり、ゼロに何を掛けてもゼロです。
お金を価値とする人間に、与えた仕事、与えた同僚、その人間はそれらの外的要因に反応して、仕事を覚えたり、一生懸命働いたり、同僚と親交を深めたり、それから別の部署に移動させて、また、仕事を与え、同僚を与え、またまた、その人間は反応して仕事を覚え一生懸命働き、新たな人と親交を深め、最後に退職させてしまえば、今までの仕事の知識、人間関係は会社の枠組から外れた裸のその人にとっては何の価値もなく、趣味でも見つけて楽に暮らすか、と発想するという具合で、そのような人間に何を与えてもゼロに帰すのです。
ただただ、お金を貰うために外的要因に反応して生きるために生きてきた、年を取って働かなくても良い、と言われるまで生きてきただけなのです。
生活のため
生活のため、家族のため、人生をエンジョイするために仕事をしている、と言う人がいます。
これらに共通して必要なのは、お金です。
嫌いなことをして、二度とない貴重な人生の大半を捨てて、生活のため、家族のため、人生をエンジョイするためなどの言い方が成立するでしょうか。
彼らは結局、お金を得るために嫌いなことをしているのです。
何度も繰り返しになりますが、お金を得るために嫌いなことをしろ、人生の大半を捨てろ、とは誰も言っていません。
ゼロへの循環
人間は、嫌いなことをしている時は、モチベーション(やる気)が下がるものです。
1週間単位で見てみますと、土曜日・日曜日で元(ゼロ)に戻すために、休息を取ったり趣味に励んでいます。
その土日に行なう趣味は、能力を伸ばすことではなく、気晴らし、憂さ晴らし、仕事を忘れて没頭する、の意味合いを持ちます。
以下は、そのモチベーションの1週間の循環です。
これを退職まで続けるのです。
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次に、長年積み上げた仕事の知識・職場の人間関係は、職場の異動毎にゼロに帰し、最後に退職と同時にゼロになります。
入社 |
1年目 |
2年目 |
3年目 |
異動 |
1年目 |
2年目 |
3年目 |
異動 |
1年目 |
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3年目 |
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では、能力をお金に変えている、自己実現をしている人の1週間のモチベーションの動きはどうでしょうか。
毎日やること全てが、自己実現・自分のやりたいことで埋め尽くされています。
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月 |
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また、知識・人間関係も全て自分のやりたいことのベクトル上にあり、積み上げられていきます。
自分が辞めない限り、諦めない限り、退職はありません。
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1年目 |
2年目 |
3年目 |
4年目 |
5年目 |
6年目 |
7年目 |
8年目 |
9年目 |
10年目 |
11年目 |
・・・ |
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新価値発見
会社側からすれば、嫌いなことをしている人間にどのようにして仕事をさせるか、と言うと、ある程度のポストを与えて若干の差を付ける、給料でがんじがらめに縛ってしまう、部署、部員を替えてリフレッシュさせる、などの方法があります。
リフレッシュさせると言う言葉からは、何か爽やかなものを感じますが、実は今までやってきた蓄積をリセット、ゼロに戻すことと同じで、ゼロになるということは、その人にとって無価値なことを何年間か携わってきた、というのと同じ意味になります。
嫌いなことをする方としては、与えられた仕事を外圧として利用し仕事に没頭する、ある程度のポストを狙う、仕事はお金を貰うためだけの価値しか付与せず家族、趣味などに生きる、などの方法をとります。
何れの方法も退職と同時に、今までの蓄積はゼロに帰します。
仕事をさせるため、するための両者には、何らかのインセンティブ(あめ)とモチベーション(やる気)が必要となり、それを与え、与えられ続けています。
定まったお金から、決められた仲間から、決められた仕事から、決められた時間から、決められた場所から解き放たれれば、仕事を続けるためのインセンティブとモチベーションを自ら探すしかありません。
逆を言うと、自ら探し出せばすべてからフリーになれると言うことです。
探し出す答えは、経験的に知っている、好きなこと、興味のあること、得意とすることとなります。
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