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これからどう進めば良いのか分からない!
手がかりが見つからない!
これからどう進めば良いのか分からない!
Q
はじめて投稿させていただきます。
なんらかのヒントを頂くことができるのではないかと思い参加させて頂こうと思いました。
私は今、これから人生をどう進めば良いのか全く分からずに立ち止まっています。 25歳です。
高校までは、嫌々ながらも与えられた枠内で優等生をすることでしか、学校でも家庭でも、自分自身に対しても、自分の身を守ることができませんでした。
大学に入った途端、自分が何をやりたいのかさっぱり分からなくなりました。
本を読み映画を見、悩み続けましたが、何も見つけることができませんでした。 自分の存在意義が見出せませんでした。
学部選びを間違えたこと、父親がリストラに遭いこれまでの世界観が崩れたこと、夢だった留学を諦めざるを得ない状況になったことなどから、私は無気力から脱出することができませんでした。
こんな状態で就職も当然上手くいくはずが無く、卒業後アルバイトを含め3社で仕事をし、今年2月に3社目を退職(事実上はリストラ)しました。
どの仕事をしていても虚しさがつきまといます。
これからどう進めば良いのか、全く手がかりがみつからず考え続けています。
価値辞典には「好きなこと」をするようにと書いてありますが、そもそも自分の好きな事さえ分からないような私はどうすれば良いのでしょうか。
答えは自分で出すものだと言われそうですが、お願いします、何かを教えて下さい。
A
殊更言うことでもありませんが、人が何を書こうが、人が何を言おうが、己の人生は己で切り拓くしかない。
「そもそも自分の好きな事さえ分からないような私はどうすれば良いのでしょうか」との問いに対しても、お見込みのとおりの「答えは自分で出すものだ」というのが、答えではないでしょうか。
試しに、自分の周囲を固めている100人程に、尋ねてみましょう。 100人共が、「答えは自分で出すものだ」と言うのではないでしょうか。
世界中で、日本のような終身雇用の慣習を持っている国は、稀です。
一生同じ企業に勤めるという発想は、世界には持ち合わせが無く、早く独立してやろうとする人々が、大勢を占めるています。
経営者は労働者に不満があれば、直ぐにでも解雇をし、また労働者の方も、己のステップアップのために、遠慮なく会社を辞めて行きます。
自然、会社と労働者の双方を峻別するシステムが形作られている、と言えるのではないでしょうか。
ここで、自分の遣りたいことを職業として実現させようとする欲望を、「職欲」と名付けてみることに致します。
己の「職欲」を満たさんがために、トライアンドエラーを繰り返す。
人間は、食欲が満たされれば、もう一段上の高みに登って、「職欲」を満たそうとする。
これらが、世界の流れではないでしょうか。
日本でも、そのようにしそうなものですが、飯が食えて腹を満たすことが出来てしまえば、それに安閑とし、満足してしまうのでしょうか。
何事にも果敢にチャレンジをし、仮に失敗をしたとしても、修正を加えて再度挑戦をする。
外国では、幼い時分から、人間として当然身に付けておくべきこととして、トライアンドエラーを繰り返し教え、成功と失敗を実際に体験させます。
これらを教わっていない人間は、次のステップへ踏み出そうとしない、ということなのでしょうか。
運動会の徒競走にて、順番を付けることを止めてしまう程ですから、チャレンジして敗北するなどは「以っての外」、トライアンドエラーを教えるのなんか「以っての外」と言うことなのでしょう。
食欲から「職欲」。
「職欲」が満たされているかどうかで人間を見るとすれば、日本人は飢餓状態に在る、と言えてしまうのでしょう。
「飢えて飢えて、今にも死にそうだ。しかし、腹を満たす食い物が見付からない」
「そもそも自分の好きな事さえ分からないような私はどうすれば良いのでしょうか」という質問を、小学生や中学生の時に、何でも知っているかのように思えた、先生にぶつけてみたとしましょう。
おそらくは、ほぼ100%の確立で、「勉強をしろ」と言われてしまうことなのでしょう。
親に相談してみても、同じ答えが返ってくることでしょう。
地域のおばさんやおじさんに相談しても、これもまた同じ返事なのです。
では次に、少し成長して高校生の時に、同じ質問を先生にしたとしましょう。
この時の返事は、以前とは変わっています。
「そんなもの、自分で探せ」と。
大学生、社会人になってしまえば、もはや、そのような質問をすること自体、憚(はばか)られる雰囲気になっています。
結局、一生を通じて、そのような質問が出来るチャンスは、小学生、中学生の時だけであって、しかも得られる答えは、「勉強をしろ」と決まっているのです。
世の中は、幼い時に「勉強をしろ」と言い放たれて、いつの間にか「自分で見付けろ」と、突き放される仕組みになっていたのです。
このように、まるで狐にでも摘まれたかのような社会で、育った人間ばかりが世の中を埋め尽くしているのですから、そんなもの考えても仕方が無く、自分で探す以外に道は無いだろう、と容易に想像が付いてしまうのです。
悲しいかな我が周りには、教えられる人間が一人も居なかったという訳ですね。
変異的とでも申しましょうか、奇跡的とでも申しましょうか。
では現に今、好きなことをしている人間は、通常の人生行路には落ちていないものを、一体誰から何処で教えて貰ったと言うのでしょうか。
疑問です。
きっと、入手ルートはいろいろと存在するのでしょう。
そして、それらを何とかして自力で見つけ出した、ということなのでしょう。
苦労して何とか見付け出すような面倒な事はせずとも、たまたま就いた職業を、後から「好きだ」と言ってしまえば良いではないか、と言う人達も居ます。
大変確立の低いことですが、たまたま就職した会社での仕事を、何年間か遣っているうちに好きになってしまった、という訳なのです。
何でも良いから、何となく一生懸命すれば、自分を満足させることが出来る。 そしてそれが、「好きだ」という感情なのだ。
という思考のメカニズムを利用した、自己説得法なのでしょうか。 何れにせよ、後に「好きだ」と感じられれば良いではないか、という人達です。
よちよち歩きの人間は、学生の内に精神的自立をし、就職をしてからは経済的自立を果たします。
親元から完全に離れることになれば、生活的自立になり、自分らしく生き活きとした人生を送られるようになれば、社会的自立となります。
しかし、世の中では、精神的、経済的、生活的に親に依存していたものを、そのままそっくり会社に移し変えれば、一応の「自立」と見なされるようです。
黙っていても、親から貰えた小遣いは、会社から貰います。 親からの信頼は、会社から信頼されているという自己満足で埋めることが出来ます。
親からの生活援助は、会社からの扶養手当、住居手当などに摩り替えることが出来ます。
そういう彼らを表現する言葉として、「会社依存症」、「会社離れの出来ない人々」などと、色々と表現が思い浮かんで来るのですが、誰もそのようにな言葉の使い方をしないところを見ると、彼らは、「会社依存症」、「会社離れの出来ない人々」ではなく、社会的責任を果たす立派な大人、と言うことの証明なのでしょう。
社会的責任を果たす立派な大人達は、フリーターやコロコロと職を変える若者を、「辛抱の無い人間」と称し、「好きなことを探すよりは、出来ることをしろ」と言葉を継ぎます。
「3年位は、同じ会社に居続けないと、何も分からないだろう。仕事とは、お金儲けとは、そんなに甘いものじゃない」 と、更に続けます。
まったくもって、頭も心も会社に依存している人間の、発想らしいじゃないですか。
如何でしょう、真に自立に近いのは、会社依存人間かフリーターか、果たしてどちらなのでしょうか。
親から会社へ依存先を変えた人間は、例え親が死んでも「自立」は保たれます。
しかし、会社からリストラされたり、会社自体が無くなってしまった場合は、自立云々の話どころではありません。
生きるか死ぬかの問題になってしまうのです。 定年退職した場合も、同じことが言えそうですね。
リタイアと同時に、何もすることが無く腑抜けになってしまうのは、会社にべったりと依存していた証拠ではないでしょうか。
とてもじゃないけど、社会的に自立していたなんて、とてもじゃないけど言えそうにありません。
一方フリーターの場合は、親が死のうと、会社が幾つ潰れようと、「自立」は保たれます。
潰れれば、いつもの様に、また別の仕事を探すまで。
別に、フリーターの勧めではありませんが、社会的自立に近いのは、フリーターのように思えてしまうのですが、如何なものでしょうか。
次に、会社依存症の人間を、好きなことをしているかどうかで見ることにしましょう。 心の内を覗き見、背筋がゾー。
好きか嫌いかというモノサシが、見当たりません。
どうやら人間は、先に「好きだ」で取り組む人と、後付けで「好きだ」と称する人と、それから「後にも先にも好きなものは無い」と言う人の、3種類居るようです。
自分の周りに存在する人の考え方や、様々なアンケートなどを見ていると、大まかではありますが、自分が何処に立っているのかを、掴むことが出来そうです。
・今熱中していることは何も無く、就きたい職業も特に無い。
・将来に対する希望は無く、先はどうなるか分からない。
・人生で最も大切な目標は、人生を楽しんで生きることである。
快楽的で享楽的な生き方をして、楽しみを追い求め続けるものの、その先には希望が無い。
希望が無く、面白く無いが為に、また快楽を求める。
しかし、やはりその先には希望は無い。
この悪循環思考を永遠に繰り返しているのだろう、という予測が、人の話を聞けば聞く程、確信へと変わって行きます。
世の中に、「好きなものは何も無い」と言う人間が多く存在し過ぎるから、誰からも何も教えて貰えない、という社会になってしまっているのでしょうが、それなら、数少ないながらも存在するであろう、「好きなものがある」と称する人間を探し出して、教えを請えば良いのではないだろうか。
イチローやゴジラ松井みたいに、好きなことを遣っている有名で派手なお手本は、身近な存在として感じらるものです。
また、本屋に行けば、どのようにして成功したかなどを、書き綴っている物を簡単に手に入れることが出来ます。
「それらから、教えを請う」
「教えを請う」と言っても、結局は、彼らの真似事をすることになるのですが、しかし実際は、そうしてもうまく行きません。
真似をする前提条件である、正に今遣ろうとしていることが、好きなことであるかどうかの判断が出来ていないからです。
だから、真似をしようとしている、その行為自体が苦痛になってしまい、「我慢」とか、「金儲け」とか、「責任ある社会人」などと、無機質で無味乾燥なものへと段々と変化してしまうのです。
決まったものを、決まった時期に、決まったように行う時代では、過去の成功や、過去に成功を体験した人の真似をすれば、それで幸せが保障されたのでしょうが、会社依存が幸せであるとは言えない現在では、巧く行かなくなったのです。
会社に退職まで居続けることが幸せである、との価値を依然として持っている人は、これからも先人の真似をして、決まったものを、決まった時期に、決まったように行えば良いでしょう。
奇跡的収穫である、「好きなことを発見する」を、奇跡的な手法ではなく、真似出来そうな遣り方で、何とか収得する方法はないものでしょうか。
好きなことそのものを真似することが無理があるのなら、「好きなことを発見する」過程までの思考を、何とか真似出来ないものでしょうか。
次のような思考は、どうでしょう。
「人生は長い」
「長いから、だらだらと時間は流れる」
「この時間の観念が、発見出来ない元凶ではないだろうか」
「しからば、人生は短いと考えるというのはどうだろうか」
漠然と在る今の人生を、短いと感じられないのですから、無理矢理短くして考えるのです。
「人生は明日終わる」
「明日、死ぬとなれば何をしたいか」
ここで、実現したかったけどチャレンジして来なかったものが、思い浮かぶのではないでしょうか。
自然の残っている湖畔へ行って、小鳥と戯れボーとする。
または、生きた証を書き残しておく、など。
では更に、1日延びて2日後に死ぬとなれば何をしたいか。
自然にも触れることが出来た、生きた証も書き残すことが出来た、ではその次に遣りたいことをしよう。
そうなるのではないでしょうか。
行ってみたい所が有るので、行ってみる、など。
ではまた更に、1日延びて3日後に死ぬとします。
会いたい人に会ってみる。
また1日延びて4日後に死ぬとします。
親孝行をする。
また、1日延びて5日後に死ぬとします。
・・・と伸び、人生が永遠に有るかのごとく感じられるようになれば、そこで初めて、嫌いな仕事でも遣ってみるか、となるのではないでしょうか。
実は、約束されていない膨大な時間の存在イメージが、嫌いな仕事や、好きでも嫌いでも何でもない仕事を、させているのです。
その昔、人間は飢えを凌ぐために、山を下り、作物を作り、命を守るために徒党を組み、利益を上げるために組織を作り、会社を作りました。
しかし、会社は、命を守り食欲を満たしたものの、心底から渇望するものを与えることが出来ませんでした。
親に依存し、学校に依存し、そして会社に依存した人間達は、心底から渇望するものは、「親から与えられるものでは無く、学校から与えられるものでも無い、ましてや会社から与えられるものでも無く、それは、自らで探し出すものだ」と、親からも学校からも会社からも、言われてしまったのです。
依然として山に残り続けた人間達には、心底から渇望するものを勝ち取った者、心底から渇望するものを探し続ける者、と色々居るのです。
無理矢理に時間を短縮して考える外に、好きなことを探し出す方法として、ホームページを作ってみるというのは、如何でしょうか。
参考ページ
http://www.kachijiten.com/challenge/make-hp/
当然のこととして、ホームページには好きなことを書きます。
仕事としては何も遣りたいことが無い、と言う人でも、好きなことが全く無い訳ではないでしょう。
仮に無いとしても、頭に浮かんで来ないだけであって、探し出す思考作業さえ続ければ、何かしら出てくるのではないでしょうか。
ホームページひとつ作ることが出来ないとなれば、別の方法をお試し頂くしかありません。
例えば、インドとかアフリカ等へ行って、今まで積み上げてきた価値観を超越した価値に触れ、手持ちを全てぶっ潰し、また一から創り直すというのも良いかもしれません。
また、実際に体調を思いっ切り崩したりすると、己の限られた持ち時間の少なさを体感できます。そうなれば、好きなことのひとつやふたつ、直ぐにでも見付かることでしょう。
(2005.01.27作成)
【これからどう進めばいいのか分からないページ関連】
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