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メモ無し記憶法!メモなし記憶術! - 提供「価値辞典」
メモ無し記憶法!
メモなし記憶術!
メモはする必要が無い。
今まで散々メモを取ってきて、何が頭に入ったと言うのだろうか。
メモを取った時点で満足してしまい、それ以後の記憶しようとする意欲を削いできたのではないだろうか。
それは則ち、頭に入れることを怠ってきたとは言えないだろうか。
冒頭から失礼なことを申しましたが、メモをしただけで満足してしまっていたのは自分であって、皆さんは、そんなことはなく、メモをしたものは、きっちりと頭に入れてきたのです。
さてさて、我々は今まで、一体何を頭の中に入れてきたと言うのだろうか?
メモをして、きっちりと頭に入れてきたものを挙げるとすれば、受験のためだけの記憶物ではなかっただろうか。
教科書や参考書に書いてあるものを、わざわざノートに書き写すという煩わしい作業を通して、受験用の記憶物を、脳の空きスペースへと詰め込んできたのではなかっただろうか。
そして、その詰め込み方法を教えてくれたのは、誰あろう学校の先生方ではなかったか。
先生方が我々にメモを推奨、いや、あれは推奨なんてものじゃなかった、メモをしなかったら怒られたものです。
あれはまさしく強要、そう、強制されたのです。
そうした理由は、転記という手を動かす行為による刺激によって、脳への書き込みが促進されるという、作用が有ると信じられていたからでしょうが。
しかし、そのような作用が、本当に有ったかどうかは大いに疑問で、実際は、そのような作用は無かったのではないだろうか、と何十年も生きてきた経験によれば、今では、そう思えてしまうのですが、如何でしょう。
当時、無理やり詰め込んだ記憶ものは、今では殆んど頭には残っておらず、また、残っているとしても、それらは何の役にも立っていないのです。
メモをして記憶することによって、受験が終わるまでの暫くの間、頭に留め置く効果は有ったのかもしれませんが、そんなものは、お世辞にも「記憶」とは呼べませんね。
それは、もしかすると、受験が終るまでの間、留め置くことさえできていれば、それだけで十分だったのかもしれません。
さて、ともかく、有効な作用が実際にあったかどうかの自らの検証も無しに、先生方は、そのまた先生方から教えられたメモ有り記憶法を、何の違和感もなく、生徒達へと強制的に移植してきたのです。
散々メモをしてきた結果が、今の自分であるとの認識に立てば、メモをしろとは、おいそれと、口に出せるものではないと思うのですが。
現実に今の自分を見て、メモをしたから、だからどうなったのか?
現実には、当時の記憶は、いや、10年前後の学校教育を通して覚えたものは、とうに消え去ってしまっているのです。
先生方の言う通りしてきた現実は、遣りたい事ひとつも見付けられない人生なのです。
メモをすることや、記憶することに没頭させられてしまって、たぶん、勉強の本質であろうと思われる、遣りたいことを見付け出すということの、妨げになってきたのでは、と思えてしまえるですが、これは、ただただ物覚えの悪い己ひとりの僻みなのでしょうか。
勝者になれ、と発破を掛けられて、必死で丸暗記した結果は、遣りたいことひとつも無い、敗者だったのです。
もともと、文字の形で情報が残されているのであれば、そんなもの覚える必要は無いと言え、本当に必要があるのならば、必要な時に必要なだけ調べて、必要な分だけ利用すれば良いのです。
「頭に入れることを怠ってきたと言えないだろうか。」と、前述してしまいましたが、実際はそうではなくて、頭に入れる価値の無いものは、限られた脳のスペースを占めるまでもなく、メモ書き程度で十分だったということなのです。
結局、学校は、頭に入れる価値の無いものをメモさせて、そして頭に詰め込ませるという摩訶不思議を、何食わぬ顔で営々と行う所だったのです。
社会人であれば、メモ書き程度で済むものを、記憶しようなんてこと、絶対に致しません。
本に書かれていることであって、しかも、頭に入れる価値のないものだと思えるのものも、絶対に記憶しないのです。
しかし、学校では、真に生徒に必要で有るかどうかなんてこと、問うたりはしません。
先生方は、決まったとおりの分量の知識を覚えさせること、このことを妄信して、そのことに猛進するのに大忙しだったのです。
先生方が、「メモ有り記憶法」で作り出したものと言えば、百科事典のような頭でっかちの人間に他ならなかったのです。
ただ、情報を頭に詰め込んだだけの、百科事典のような人間などという、失礼な言い方は止めにして、膨大な量の情報を詰め込んだその労苦に報い、そして、その行動をもっと高く評価してあげれば、彼らは、情報と知識と知恵を獲得した勝者である、と言うことも出来ます。
良く言えば勝者、皮肉って言えば百科事典。
さて、彼らが獲得したものは、一体何であったか。
裸のままの何も加工されていないデータは、単に「情報」と呼び、それらが関連して、一体的に纏まっているいるものを、「知識」と呼びます。
情報や知識を、どのような組み合わせで頭から取り出し、そして、どのようにコーディネートするのかを、「知恵」と呼びます。
彼らが、獲得したものは、これらの「情報」や「知識」や「知恵」であり、これらを獲得した人間を、世の中では、頭の良い人間、応用力の有る人間、出来る人間、頭の切れる人間などと呼ぶのです。
人によれば、できる人間は、メモの仕方が違うと言います。
「情報」と「知識」と「知恵」を獲得した事実に加えて、その獲得の過程にも、凡夫との差が出ると言うのです。
同じことをメモしても、頭の切れる人間は、要所々、ポイント々を押さえている。
これらのメモの仕方の違いによって、勝者と敗者は分かれる、と言っているのです。
メモの仕方で、出来る人間と出来ない人間に分かれる。
確かに、そう言う人も居ますが、本当にそうだろうか?
情報や知識、知恵やメモの仕方などのノウハウを獲得したところで、それを何処で生かすのかが重要ではないのだろうか。
己の立つ位置を決め、そこで情報や知識、知恵やノウハウを駆使することが、真のできる人間ではないのだろうか。
立つ位置さえ間違わなければ、情報や知識、知恵やノウハウは、頭に入っていようと、紙に書かれていようと、どちらでも良いのではないだろうか。
本意ではない会社で、嫌いな仕事をするのに、情報や知識、知恵やノウハウが大切などと言われたところで、そんなものどちらでも良いのではないだろうか。
そんなものを大事そうに言うのは、大抵、自分の現在地さえ把握できていない人間、と決まったものなのですが。
本当に我々がしなければならないのは、情報や知識、知恵やノウハウを獲得することなんかじゃなくて、それらの土台となっている「ものの考え方」というものを、頭に叩き込むべきことではないだろうか。
それが出来なければ、自分の好みとする会社も、自分の遣りたい仕事も、決まらないというものです。
我々は、頭の良いとか、応用力の有るとかの以前に、どのように物事を考えるかを確立し、頭に叩き込んでおくべきなのです。
もっと厳密に言えば、頭というよりは、潜在意識に刷り込んでおかなければならないのです。
そもそも、ものの考え方なんていうものは、頭で覚えれば身に付くというものではありません。
何度も何度も繰り返し繰り返し考え抜き、自然と口から発せられる程に、身に染み込ませなければならないものです。
ある日突然、「何故自分は働くのか?」という疑問が浮かんできたとします。
浮かんで来なければ、何ら疑問に思うことなく、いつものように働くことが出来るのですから、それはそれで結構なことなのですが、浮かんできたのなら、これはもう仕方がございません。
疑問に思ったことをチャンスと捉えることとし、ここはひとつ、とことんまで考え抜いて、何故働くかについてのものの考え方を、完全に確立することと致します。
第一、この疑問に対する考え方の獲得なしに、我が意に添った会社選びや、仕事選びをしようとしても、到底無理というものです。
メモ無し記憶法においては、「何故自分は働くのか?」という「とっかかり」でさえ、メモしてはいけません。
思い付いた時に、出来る限りの時間を投じて、何故なのかを考え抜くようにするのです。
先送りは決してしない。
例え、答えが出ずに終わったとしても、それはそれとして放っておくのです。
ある日ふたたび、「何故自分は働くのか?」という前回の疑問の続きを、思い出したとします。
この時は、二度目のチャンス到来です。
ここでも、時間を掛けて考え抜くように致します。
何らかの「答えらしきもの」が、若干頭に浮かんできたとしても、やはり、メモは致しません。
例え、それが中途半端に終わったとしても、それはそれで良しとするのです。
その後、二度と思い起こすことがなくても、それはそれとして、縁が無かったものとして諦めるのです。
とにかく、メモすることを、我慢して踏み止まる。
そのようなことを繰り返す過程で得たものというのは、滅多なことでは忘れ去られるような、代物ではないのです。
メモ有り記憶法は、処世記憶術、メモ無し記憶法は、処私記憶術と、それぞれを言い換えることが出来ます。
処世とは、世渡りのことであり、処私とは、自分の立ち位地を確立すること。
手持ちのメモを、よーく見て頂ければ、この世間で如何に生活をして行ったら良いかについて、取り敢えず必要とされることのみが、書きしるされているのではないでしょうか。
学校でのメモ、会社でのメモ、これら全てが、世渡りのためだったのか、と分かってしまうのです。
世渡りの「世」が変われば、メモの仕方も変わってくるのが必定。
会社からの、労働者への遠慮は無くなり、労働者からの、会社への忠誠心が無くなったように、ありとあらゆる構造の改革が行われている昨今では、どのような変化にも揺らがない、自らの立ち位地を確立することが肝要ではないでしょうか。
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