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確信犯・未必の故意・認識のある過失・認識のない過失
確信犯 未必の故意
認識のある過失 認識のない過失
そうなるに違いないと、自らの予測や判断を信じている思考は、「確信」。
思わしくない結果に終わることを、承知の上で何かをする場合の思考は、「故意」。
するつもりも無く、そうなるとの予測も全く無かったのに、思わしくない結果に終わってしまう時の思考は、「過失」。
自らの信念に基づき、正しい行為と信じて行う犯罪は、「確信犯」。
思わしくない結果を事前に予想しておきながらも、なお、その行為に及んでしまう時の思考は、「未必の故意」。
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中学生の頃、誰が買ったかは知らないけど、何故か我が家にあった刑法の本を、読んだ時のことを思い出します。
「確信」、「故意」、「過失」、「確信犯」、「未必の故意」、「認識のある過失」、「認識のない過失」・・・
いや、あれは、読んだなんてものじゃなかった、ペラペラっていう感じでした。
ペラペラと本を眺めて分かったことと言えば、書いていることの全部が全部難しいということと、犯罪者か、弁護士か、裁判官か、とにかく自分には関係が無いということです。
社会に出て、あの難しい言葉達に再度触れてみると、彼らは犯罪者や弁護士、裁判官などの法曹関係者だけのものじゃなくて、我々みんなのものだった、人生の道中、あちこちに存在しているものだ、と気付きます。
例えば「過失」。
我が人生を振り返って見れば、しょっちゅう「過失」を犯していたようなもの。
あなたの人生においても、そうなるとは思ってもいなかったのに、そうなってしまったことは、なかったですか。
自らに「確信」や「故意」がある場合は、勿論のこととして、「過失」がある場合も、当然、自らの人生の第一義的な責任は、自らが取るしかありません。
「確信」して行おうが、「故意」に行おうが、「過失」で行おうが、例えどのような行い方をしても、同じことです。
自分の取った行動の責任は、自分にあります。
そして、自らの行為の源が、「確信」なのか、「故意」なのか、それとも「過失」なのかを、第一義的に判断するのも、自らしか居ません。
自らの行為の結果、何故そうなったのかを、自らが判別できない場合は、第二義的に他人がしゃしゃり出て来て、審判を下したりするだけです。
自分の行為が、犯罪のような重大なもので無ければ、誰も自らを判断してくれないし、裁いてもくれない、そして、過ちを指摘してくれないし、導いてもくれない、当然責任も取ってくれないのです。
要するに、誰にも危害を与えず、自己顕示も自己主張もせず、大人しく目立たぬように、息を潜めてひっそりと暮らしている限りは、自分とは他人からすれば、どうでも良い存在なのです。
「お金はすべてに優先する」とか、「組織の維持はすべてに優先する」という信念に基づき、しかも、それを正しいと思い込み行う行為、例えば、正しいと思って、食品表示を誤魔化して売り付ける場合、これは「確信」であり、それが犯罪であるならば、「確信犯」となります。
勿論、「正しくない」とか、「悪い」と思って行っている場合は、「確信」とか「確信犯」にはなりません。
「我が社は余り業績が思わしくない、このまま行けば会社が倒産するか、自分がリストラされるだろう」と結果を事前に予測しておきながら、尚その会社に居続け、そして、結果が思った通りの、倒産やリストラであった場合は、「未必の故意」となります。
結果に対して、「止むを得ない」とか「致し方ない」と、認めてしまうと「未必の故意」、ひょっとすると、倒産するか、リストラされるかも分からない、と思いながら遣り続ける場合は、「過失犯」となります。
「このまま居続けたら、絶対にリストラされる」と分かっていながら、なお居続ける行為は、自らを傷つけることになりますので、明らかに、傷害の「故意」があり、「傷害罪」になります。
我が社は危ない、しかし、自分は一応信頼されていて、一生懸命頑張っているから、まず、そのようなことにはならないだろう、と結果の発生を認めない、この場合は、「故意」ではなく「過失」、「認識のある過失」となります。
同じ「過失」でも、地震や災害、または、予測の出来ない不慮の事故や、不測の事態などによって会社が倒産した場合は、それらが起こるとは思ってもいなかったのですから、結果の認識がない、「認識のない過失」となります。
刑法に触れれば、非日常の犯罪であって、刑法に触れないものは、ただの何でもない日常の「確信」、「故意」、「過失」、「確信犯」、「未必の故意」、「認識のある過失」、「認識のない過失」となるのです。
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