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ジェンダーフリーと男女平等の行き過ぎ!(意見のかたまり1)

ジェンダーフリーと男女平等の行き過ぎ!(意見のかたまり1)「ジェンダーフリーとは社会が「男性らしさ・女性らしさを選ばない少数派の人達」の存在を認めて個人に選択する自由を与え、社会的制度を整えることを目的」にも見えません。

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ジェンダーフリーと男女平等の行き過ぎ!(意見のかたまり1)


ジェンダーフリーとは何?

男女平等とは何か?


意見


差出人:しめじ
送信日時:2004/07/21(水) 21:34:16


>ちーたん様
ええっと、つまり社会的性差や文化的性差は認める、但しそれは男性、女性の可能性を狭めるような性差であってはならない。それがジェンダーフリー@肯定派の考えでしょうか?

 それってジェンダーフリー(free)じゃないんじゃないんですか?いや、ちゃんと調べたわけではないですが、少なくとも(社会的、文化的)性を別ける壁をとっぱらおうという考えじゃないなら、わざわざfreeという単語を使う必要が無いように思います。時代に合わせた男性観、女性観に改良しようと主張するなら、こんな誤解は生まないと思うんですが。

>あーる様
あーる様の主張はなんというか一貫性に欠けているように思えます。

>人為的に作られた性差を打破するのがジェンダーフリー思想。
>男性の男性像からの解放を、ジェンダーフリーは目指しています。
という考えと
>今までの文化的性差そのものを否定するのではなく、これから新しい文化的な性意識を作っていく、というのがジェンダーフリーの基本的スタンスです。
という考えは矛盾しませんか?
前者の考えは性差を無くそう、後者の考えは性差を作ろう、といっているように思えるのですが。




私は別にカテゴライズすることは悪いことではないと思います。そもそも我々は人間というカテゴリーに分類され、そこから外れると異端とされています。(人を殺して快感を得る人は異端です)つまり、自由を束縛されています。しかし、そのことに文句をいう人は殆どいません。もちろん、人間とは禁欲的であるべきだ、なんていわれれば居心地が悪いでしょうが。

つまり、『カテゴライズされる』ことについては、誰も違和感を感じていないし、不満にも思っていません。要はそのカテゴライズの基準ではないのですか?あーる様の考えでは、(前者では)カテゴライズの基準に問題があるから、カテゴリー別に分類する事を無くそう、と主張していると思います。それは問題点の認識に間違えがあると思います。問題なのはカテゴライズすることではなく、その基準なのですから、そこを改良していけばいいのではないですか?(こちらが後者の考えですね。これには同意できます)




ちなみに
>子育てや出産が尊いと言ったのも、最初は近代国民国家です。

なのは、近代以前は子育て出産は『普通』のことであったからでは?やって当然。しないなら離婚が当然だったんじゃないですか?武家社会は結構普通に子を生めないから離婚ってあったそうですよ。

つまり近代になってからどんどん女性の可能性は広がってきていて、その可能性を狭めてまで出産、育児をすることは、尊い事だとするようになったのではないでしょうか?私はそう思います。




意見


差出人:しめじ
送信日時:2004/07/21(水) 22:02:01


すいません。
1行目
>ちーたん様
ではなく
>しまっち様
です。




意見


差出人:ちーたん
送信日時:2004/07/21(水) 09:54:35


ここは議論してたんですね。
申し訳ないです。
さらっと見た限りでは全然文章が流れているように見えなかったもので、
駄文が並んでいるだけだと勘違いしていました。

まぁ、
「教えられた=強制された」
ということの根拠がさっぱりわかりません。
強制することと教えることは違うでしょう。
まぁ、「異端」とみなされることが怖くて怖くてたまらないって言うのなら仕方ありませんが。

自分が「異端」ではないということを正当化してくれるものがジェンダーフリーなのでしょうか?
私は「異端」を差別するつもりは無いのですが、それを「正当化」するためにほかの物を攻撃するのであれば考えは別です。




そんでもって、
前書いた文章の根拠ですか?
私の周りにそういう女性が多かったってだけの話です。
教育の賜物だということなのでしょうかね?
申し訳ありません。

まぁ、近代や歴史や他の国の話を持ち出すより
現実に即していると考えていますけどね。

私の個人的な考えでは、基本は家庭だと考えていて、
家で子供が育てられるように男が稼ぎに出されていると考えているのですけどね。

とりあえず、ジェンダーフリーうんぬんより
必要なのは「異端」を認める心と社会ではないのですか?




意見


差出人:しまっち
送信日時:2004/07/21(水) 03:52:57


ジェンダーフリーがどういうものかについて賛成派と反対派の認識が余りにも違いすぎて議論が十分に噛み合っていないように思います。大まかに区分すると
@ジェンダーフリーとは社会が「男性らしさ・女性らしさを選ばない少数派の人達」の存在を認めて個人に選択する自由を与え、社会的制度を整えることを目的とする活動のこと。

Aジェンダーフリーとは男女間の生体構造以外の一切の区別を社会からなくすことを目的とする活動のこと。
このうち政府が行おうとしているのは@であり、一部の革命的フェミニストが提唱しているのはAである。@については男女共同参画基本法制定時の福田官房長官の「この法律は男性らしさや女らしさを否定するものではない」と言う発言、Aについては小学校の男女混合名簿を是とし雛祭りや端午の節句を差別と捉える、という点からもそれはわかる。




@は自分の生き方は自分で決めるという自己決定権・個性の尊重からも認められるべきである。男性が家庭に入っても構わないし女性が社会で働くことも認められる。ただ、否定しないだけでは意味が無い。具体的には男性が育児休暇をとること・女性が社会で働く事への社会的理解・制度構築という行動の自由が保証されなければ、生き方の多様性を認める社会とはなりえず生まれてきた性差で生き方を半ば強制される社会となる。

Aは無条件に認められるべきではない。現在の社会制度は多くの人が選ぶことによってにとって多数派に有益なように構築されたものである程度の合理的根拠は認められる。よって男らしさ・女らしさ、男=仕事、女=家庭といったものも多くの人がそういった生き方を選択したことでその社会の共通認識となったもので直ちに否定されるべきではない。




しかし、それによってそれに当てはまらない人もそれに当てはめようとする制度であるならばそれには修正が必要となる。男が家庭を選んでも女が仕事を選んでも不利にならないような制度とし、少数派への行動機会の均等を図るべきである。

たとえば社会で働く労働者の男女比を均等にする事が重要なのではなく7:3でも3:7でも構わない。何故ならそれは結果に過ぎないからである。重要なのは男女一人一人がそれぞれが自分が望む振るまい・生き方を選べる環境を確保し、どんな生き方を選んでも他人に迷惑を掛けない限りは他人や社会から決して批難されることのない社会を実現することである。

話を元に戻すとジェンダーフリー賛成派の方は@の意味で捉え、反対派の方はAの意味で捉えているように思います。反対派の方もまさか@の意味で反対はしていないでしょう。そしてジェンダーフリーの本来の目的は言うまでもなく@であり、Aの意味で活動している人達に対して反対派の人達は危機感を抱いているのでしょう。




意見


差出人:あーる
送信日時:2004/07/21(水) 02:50:19


なるほどですね。
自分のことを、男らしい、女らしいと思うことも、確かに多様性の一つですね。その点を見落としていました。

ですが、残念なことに、「男の子なんだから、泣いてはいけません!」とか「女の子なんだから、危ないことをしてはいけません!」という教育が今まではびこってきたために、そうでない生き方が否定されてきたのも事実です。

ここでは、個人としての人間性が失われてしまっています。
すなわち、個人は、カテゴライズされた集団の一員としかみなされていないわけです。

それは、性集団だけではなく、国民集団や地域集団、職業集団や階級集団も含まれます。

例えば、「○○人はこういう人たちだ」「○○地方に住む人はこんな性格している」「○○の仕事に就いている人にはこんな人が多い」「年収が○○以上の人たちはこんな生活を送っているに違いない」といったものです。




こういった本はよく出版されていますよね?
もちろん、そういったもの自体を否定するわけではないのですが、というよりも、むしろそういったものは現実に存在しているのでしょうが、
このバイアスで個人が捉えられたとき、その人は自分を集団の一員だと自ら認めることによって、ある程度キャラクターを演じなければならなくなるわけです。
そして、そこから外れれば、「異端」とみなされるわけです。

文化的に性差は存在しています。
ですが、いつまでもそれを擁護し続けるわけにはいきません。
なぜなら、キャラクタライズされることによって、それ以外の行動が抑制される、すなわち、自由が奪われるからです。




これが現在の社会的性差の根本的な問題です。
それは女性が抑圧されていると言うことのみならず、男性も枠組みの中でしか捉えられていない、と言う意味で、ジェンダーフリーは男性、女性ともに解放を目指します。(その点でフェミニズムとは異なっています)

社会的な性差が小さくなったとして、生物学的な性差が見えなくなるわけではないので、男女差に意味が無くなるわけではありません。
ましてや、トイレやお風呂が別なのは恥じらいだけが理由ではないので、それを一緒にするのは生物学的な性差をも無意味化しています。

今までの文化的性差そのものを否定するのではなく、これから新しい文化的な性意識を作っていく、というのがジェンダーフリーの基本的スタンスです。
もちろん、そうやって作られた新たな性意識も、文化的、人為的、社会的に創られたものに過ぎません。
それは絶対的に正しいものではなく、ただ自由が奪われている現状よりはいくらかまし、という程度です。




しかし、多元的な価値観の社会への移行を行うことは(そこでは、今まで男らしい、女らしいと言われてきた男性像、女性像を実践する生き方も認められます)、個性を尊重するためにも重要な意味を持っています。
現状としては、ほとんど性別に執着した生き方しか認められていません。
それを是正するのがジェンダーフリーです。

男女の脳に差があるのは、確かだと思います。「話を聞かない男、地図が読めない女」がそういう話を展開していましたね。
実際上、境界線上では人為的な性差と生物学的な性差を区別することは難しいと思います。
だから、現実的には個別的に対処していくしかないでしょう。
ですが、それらを自ら選び取ったのではなく、既存のものとして受け入れたのでは、やはり、カテゴライゼーションのバイアスが生じることになるので、望ましいものではありません。
(何度も言うようですが、能動的に性差を受け入れたのなら、問題はないのです。ですが、誰もが実行できているわけではありません)




近代とは、ここでは近代国民国家社会が誕生した19世紀以降のことを指します。
ヨーロッパではフランス革命以後、日本では明治維新以後です。
古代から確かに、家族はありましたが、そこには家族共同体はありませんでした。
前近代社会では、男女関係は実利的で、親子関係は生存競争を優先し、周囲の共同体との関係は強い絆で結ばれていました。

また、家事労働と市場労働は明確に区分されてもいませんでした。
しかし、19世紀に資本主義が浸透することで、家事労働と市場労働が分離し、その各々に女性と男性を従属させることで、近代国民国家は発展を目指したわけです。
ここに、「男は仕事、女は家庭」という観念が生まれます。




さらに、周囲の共同体との関係が稀薄になったため、家族は大人数家族でなく、核家族となり、それを支える基盤が求められたのです。
それが、男女関係におけるロマンティック・ラヴ・イデオロギー、親子関係における母性愛と父性愛、そして、それらをまとめる家族愛だったと言うわけです。
つまり、これらが織り成す家族共同体は近代国民国家社会が生み出したものだったのです。

これらを維持するのに必要なのは、前出の通り、男女の労働分化であり、その枠への押し込めでした。

ですから、子育てや出産が尊いと言ったのも、最初は近代国民国家です。
何しろ、富国強兵政策から人口を増やさなければなりませんから。




そういった中で、男性が社会で様々な苦労を甘受してきたのは、努力や成功や力や支配といったものが男性像にあったからです。
しかし、それらの達成はほとんどできないため、男性にはストレスが蓄積し、自殺やDVが増加しました。

これを助けるためにも、男性の男性像からの解放を、ジェンダーフリーは目指しています。
ですから、女性も社会に進出するならばそれらを感受せよと言うのは、ジェンダーフリーを全く理解していない証拠です。

高齢少子化は、年金や医療費や介護負担を増やし、パラサイトシングルやアダルトチルドレンを助長します。
ですから、少子化に問題がないと書いたのはまずかったですね。概念的な問題がないという意味のつもりでした。




しかし、高齢少子化は、一方で、上のような政策的、実践的な意味での問題を生じています。
それを解決するのが、実はジェンダーフリーです。
これまで、女性は家庭に押し付けられてきたため、育児も女性が専らにしていました。

すると、女性の精神的、肉体的負担が大きく増えるため、晩婚化、非婚化を招きます。

男性にしても、一人の経済力では家庭全てを支えることができず、たくさんの子供を持つことを嫌がります。

だから、男性が家庭に進出し、女性が社会に進出することで、少子化は改善の方向に向かいます。

ところが、これを阻害しているのが、社会的性差です。
社会に進出した女性を重要なポストに就かせず、低い給料に甘んじさせ、家庭に進出した男性を奇異の目で見る状況が、少子化の原因にもなっています。
実際、経済協力開発機構、つまりOECD参加29か国を対象にした調査では、女性の労働率が高い国は出生率が高い、という傾向にあります。
これからも分かるように、女性の社会参画は少子化を防ぐ可能性を秘めています。
そのためにも、ジェンダーフリーを進める意味があります。




最後に一つ、議論することはリングの上で戦うこととは意味が違います。
他人の意見を聞くことで自分の意見の正しい部分に自信を持ち、間違った部分を反省することが、目的です。
少なくとも私は、自分の意見を何が何でも押し通そうなどという意思は持っていません。
ですから、「都合が悪くなると○○を持ち出す」などと、さも分かったことのような態度を取られるのは心外です。

また、自分の想像や個人的体験から出発したような意見には価値がありません。
(例えば、「だって、正直女性ほど子供をかわいいと思うことが出来ませんもん」のようなものです。こんなものは全く理由の提示になっていません)
論において重要なのは、結論ではなく、論拠です。
決め付けではない論拠をはっきりと提示することを望みます。
(決め付けとは、例えば、「そう思ってくれるのはアンタのダンナだけでしょ?」とか「女の人は家族に嫌われたらきついでしょ?」とか言うものを指します)

そうでないと、自分の意見を省みることが不可能になるので、その意見には価値がありません。




意見


差出人:しめじ
送信日時:2004/07/21(水) 02:43:09


ふと思ったんですが、生物学的性差しかないのなら、異性を特別に意識する必要はないですよね。

つまり、恥じらいって無くなりますよね?男を意識する恥じらいとか。女を意識する恥じらいとか。なら、トイレを共同にしても何も問題無いような気がするんですけど。二つ作るより、一つの方が合理的な気がします。個室を増やして。

それに風呂もそうですよね。生物学的性差しかないんですから、異性に裸を見られるのと、同性に裸を見られるのには何一つ違いはないですし。




意見


差出人:ちーたん
送信日時:2004/07/20(火) 17:59:53


なんでしょう?ここは。
男らしさや女らしさなんてどうでもいいです。

今まで言われてきた「男らしさ」と「女らしさ」をそのまま、「仕事をする人」「家庭を守る人」に置き換えればよいでしょう。

「ジェンダーフリー」をかざす人は都合が悪くなると、「セックスフリー」を持ち出すということが良くわかりました。

例えば、女の人は筋力が無いので仕事では男性と同じことは出来ないとします。
それには賛成ですが、それに補助などが出ると言うのはおかしいです。
男性だって筋力が無い人はたくさん居ます。
そういう人も「向いていない」ではなくて「個性だから仕方無い」という理由で補助してくれるのでしょうね。

子育てや出産が尊いって一体誰が言ったのでしょうか?
そう思ってくれるのはアンタのダンナだけでしょ?




社会に出るなら
 ある程度のセクハラに耐える
 すぐに泣いたりしない
 家庭を犠牲にし、家族に嫌われる
ってぐらいは受け入れるべきでしょうね。

男の人は昔からそれぐらいのことを受け入れてきたわけですから。
その上で家庭を取るか仕事を取るかを決めればいいだけですよ。

この上で、女性に家庭を取る人が多く、男性に仕事を取る人が多いのは性差でしょ?
だって、正直女性ほど子供をかわいいと思うことが出来ませんもん。




だいいち、女の人は家族に嫌われたらきついでしょ?
そういう脳の構造してるんだからさ。
会社でみんなが自分のことを好きで居てくれるなんてありえないのよ?

そうじゃない女性は社会に出ればいい。 超★お薦め。
そして、家庭に入りたい男でも見つければいい。




意見


差出人:toybox2004
送信日時:2004/07/20(火) 07:33:12


あーる様

私が気持ち悪いのは、多様性を認めない「押しつけ」です。男はかくあるべし女はかくあるべしや(それに対してジェンダーフリー論者のいうところの男も女も)人間はかくあるべし、という考え方自体はいいですよ。好きずきですから。

ただ、その考えを押しつけるのはイヤですね。男らしく生きたい、女らしく生きたいと思ってる人だって沢山いるのですから。ところが、実際は教育や行政に着実に浸透していっているように見受けられます。

そもそも男らしさ女らしさは自分らしさ(あーる様は人間らしさとおっしゃってました)と対立するもんじゃないでしょう。自分らしさの一つとして男らしさや女らしさがあると思います。




しめじ様、あーる様

ジェンダーフリーは社会的性差のみならず文化的性差もなくすことを目的としています。ようは、生物学的性差の違い以外には何も差がないというのが彼らの主張です。ですよね?>あーる様。

社会的性差の是正なら、今までの男女平等、男女共生運動となんら変わらないですし、かつてのそのような運動は男女の性差を前提として、お互いを尊重した上で、男女間の不公平感をなくすよううな運動でした。であれば、応援する気にもなるってものです。

あーる様はパプアニューギニアでの例を出されましたが、ジェンダーフリーとは「パプアニューギニアのチャムブリ族では、男性が着飾り、女性が労働します」という文化すら否定するものです。これだって、無意識にパプアニューギニアの社会に浸透していったイデオロギーなんですよね。

少子化による「人口が減るのは大した問題ではない」ということには全く同意できません。経済活動から産業活動すべてにおいて衰退していきます。国が衰退すれば、そこにすんでいる国民の生活も苦しくなるでしょう。これのどこがたいした問題ではないのかわかりかねます。




意見


差出人:toybox2004
送信日時:2004/07/20(火) 07:57:56


あーる様

補足です。

自分で紹介したページへのコメントを忘れていました。脳に性差があることはお認めになりますか?紹介したページにも書いてますが、つまり、脳に違いがあるということは、そこでおきる生化学反応も違い、必然的に、その違いは考え方や反応の仕方の差となってあらわれてくるわけです。

そういった違いは、時代時代の環境に影響を受けつつ、男らしさ女らしさになってあらわれたり、積み重なって伝統(社会、文化)となって今の日本を作り上げてるわけですよ。

あーる様は、「人為的に作られた性差までも、批判すらせずに受け入れてしまうのは、少々、問題ありではありませんか?」とおっしゃってますが、そうなるとどこからどこまでが「人為的」に作られた性差なのか、なんていうのは判断できるんでしょうか。また、すべての人が批判すらせずに受け入れてるわけでもないと思うのですよ。

件のページの生徒の感想のほうがよっぽど自然な考え方に見えますね。




意見


差出人:toybox2004
送信日時:2004/07/20(火) 12:05:59


あーる様

すみません、バラバラと。
あともう一点。あーる様がおっしゃられている近代ってのはいつぐらいから、いつぐらいまでの時代のことでしょうか。

いえ、家族なんてものは、近代史以前から存在していたような気がするのですが、私もちょっと調べてみます。




意見


差出人:しめじ
送信日時:2004/07/20(火) 02:25:52


横から失礼します。

ジェンダーフリーの考えは、生物学的性差ではなく、社会的性差を無くすというものですよね。その社会的性差を無くす目的はなんなのでしょうか。不平等が気に食わないということではないと思いますが。女性の活動範囲を広げることが、女性の幸せに繋がるのでしょうか。

また、社会的性差を無くすことの弊害をどのようにお考えでしょうか。どうにも、社会的性差の喪失は社会そのものの基盤を破壊しかねないと思うのですが。社会によって形成された男像と女像を否定するわけですから、それを形成した社会そのものも否定しかねないのではと危惧します。

自分が男である、女である。という自覚をもつ根拠を生物学的性差のみに求めなければならなくなるんですよね。ジェンダーフリーが進めば。




じゃあ、男って何?女って何?っていう疑問が当然うまれると思います。体の仕組み以外に、違いは無いのと?現在はそれを社会的性差が解答してくれますが、それが無くなった場合何が答えてくれるんでしょうか。もしくは、体の仕組み以外に違いは無いんでしょうか?

もし、無いとすれば、そのことが広く認知されることによって何らかの弊害は生まれないのでしょうか?私は生まれると思います。身体以外に男女を区別するものが無いのですから、『身体の違いから発生する男女の違い』に対応するものが無くなると思うんです。

例えば、男はアレが得意だ。
女はアレが得意だ。
というのは、身体の違いから生まれます。

現在は、単純に言えば、男は強い⇒女を守ってやれ、女は子を産む⇒子を育てろ。といった感じに、社会的性差が生物学的性差による男女の違いに、意味なり目的なりを与えています。




ですが、社会的性差が無くなると、そこに何一つ意味も目的も無くなります。
男は強い⇒だからどうした?
女は子を産む⇒それがどうした?
といった具合に。

その時、困りませんか?自分が男である女であるということはわかっていて、異性と自分は異なっていることも、成長と共に自覚するのに、それにたいして何一つフォローが無いんです。その内何故異性を好きになるのか。といったややこしい問いすら考えなければならなくなります。

そして、その答えは「別に異性を好きになる必要性はない」に落ちつくしかないでしょう。社会的性差がないんですから。なのに異性を好きになる。発狂しそうな状況じゃないですか?




後、現在の社会的性差にどのような問題があるのでしょうか?
結構上手く機能していると思うんですけど。
わざわざ手を加える必要が無いほどに。
それとも、私の知らないうちに、もう破綻寸前なのでしょうか?

最後に。
単純な考えですけど、少子化になると高齢化の進んだ日本では、ものすごく税金が高くなるような気がするんですけど。
これって問題ですよね。

あと、子供一人一人を大切に扱うことが逆に子供をダメにすることもあるんじゃないでしょうか?
中国では一人っ子政策の結果、子供を甘やかしすぎるため我が侭な子供が増えたと聞きます。




意見


差出人:あーる
送信日時:2004/07/16(金) 03:47:27


いえいえ、別に近代的思想がいけないとは言いません。
家庭を作って未来に伝えていくと言う社会、それ自体は素晴らしいですよ。

ただ、近代社会はそのために、女性は家庭、男性は仕事、という役割分担をしたわけですよね?
もちろん、それが市民社会としての発展のため、人口を増やしたかった近代国家にとっては重要なことだったわけですけれど、もう今はそんな時代ではありません。
既に、男女が役割分担をして国家や社会を作ろう! ということは無批判的に受け入れるわけにはいかないわけです。

そもそも、男性が仕事、女性が家庭、などというのは、世界の一部の地域にしか通用しません。
例えば、パプアニューギニアのチャムブリ族では、男性が着飾り、女性が労働します。




こうしたことは、西洋的な近代社会が当然のものとして受け入れてきたものが、社会的に相対的なものでしかなかったことを意味しています。

家族共同体を支える重要なものは何でしょう?
それは、女性が家庭で子供の世話をし、男性が外で働いてお金を稼いでくると言う構造ですよね?

となると、家族共同体を維持するためには、どうしても女性と男性をその枠の中に押し込めなければならないわけです。
つまり、toybox2004さまが「気持ち悪い」とおっしゃる、全ての女性や男性はこうあるべし、と言う考えが近代になって登場するわけです。

この考えは、イデオロギーとして無批判的に社会に浸透してしまいました。
マンハイムの定義によると、イデオロギーとは「特殊利害を普遍利害のように見せる無意識的な虚偽意識」と言うことですが、近代に至って、国家発展のために過ぎなかった家族共同体という思想は、昔からあったものであったかのように、まさに「無意識的に」人々の中に染み渡っていったわけです。




こうした、人為的に作られた性差を打破するのがジェンダーフリー思想です。
ですから、toybox2004さまが「すべての女性は男性は人間はかくあるべし」というものを「気持ち悪い」と感じるのであれば、あなたは立派なジェンダーフリー論者になれますね?

中学生の授業風景として、お見せになったページですけど、以上の点から論理破綻していることがお分かりになると思います。
このページを作成なさった教諭は、ご自身が人為的な性差イデオロギーから抜け出せなかったため、データから演繹して結論を導き出したのではなく、結論を補強するためのデータを集めてきてしまったんですね。

その証拠に、「男脳」「女脳」ということを言うのであれば、それは「セックス(生物学的性差)」であって「ジェンダー(社会的性差)」ではありません。
この教諭は、無理にでもジェンダーフリー思想に反対したいがために、間違ったデータを持ってきてしまったとしか、考えられませんね。




このページに書いてありますね。
「『脳の性差』が生まれつき存在するという科学的事実に照らし合わせて考えると、…」
生まれつき存在する性差、ということは生物学的な性差、ですよね。
これは当然、平等になんかできません。

ですから、こうした差異を認め合って尊重しあうのは、とても素晴らしいことです。
ですが、人為的に作られた性差までも、批判すらせずに受け入れてしまうのは、少々、問題ありではありませんか?

もう一つ言わせていただくなら、どうして少子化がいけないことなのでしょう?
子供の数が減れば、子供一人一人が大切に扱われるようになるとも考えられますし、人口が減るのは大した問題ではないと思います。
少子化を危惧すること、それ自体が、近代的な富国強兵思想に縛り付けられているようにしか見えません。




意見


差出人:toybox2004
送信日時:2004/07/08(木) 00:24:41


よくわからんのですが、近代的な思想はダメダメってことですか?

あーる様は、男性と女性が結婚し家庭を作り子供を儲け生活を営む、そして子はまた新しい家庭を作り、過去を未来に伝えていく社会には反対ですか。

もちろん、こうしたくない人はしなくてもかまわないのですが、ジェンダーフリー運動は、教育から始まり社会制度まで、すべての女性は男性は人間はかくあるべし、のように押しつけるところが気持ち悪いです。

また、少子化の原因がジェンダーフリーだけとは言ってません。さらにそれを推し進めるといっているだけです。

http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/0311.html

ここ一読されることをおすすめします。中学生の授業風景です。これについてはどう思われますか。




意見


差出人:あーる
送信日時:2004/07/07(水) 07:51:22


よー♀さまの意見は当然ですね。

ジェンダーフリーは別に、トイレや温泉を共同利用にするセックスフリーの思想ではありませんし、女性割引や女性週刊誌は経済的な利益の追求から出てきたものであって、ジェンダーと何ら関係のあるものではありません。

また、家族の共同体破壊と言うことが言われますが、ではその家族の共同体は何処から出てきたものでしょうか?

古代から家族共同体というものがあったと考えるのは、間違いですよ。
実は、これは近代になってから作られた思想に過ぎません。

家族は愛によって結び付けられ、共同体として暮らすものだ、という固定観念のことを、アンソニー・ギデンズはロマンティック・ラヴ・イデオロギーと呼んでいます。

つまり、家族の共同体、ということを言えば言うほど、近代的な思想にがんじがらめになっていることを表しています。




しかし、家族共同体が大事なのだとしても、そこでは「女性は子供を生まなければならない」という「女らしさ」に捕らわれているため、その考え自体が女性の活動範囲を狭めているのです。

また、少子化が進むのは先進国では当然であって、その原因をジェンダーフリー思想に求めるのは場違いです。

「らしさ」は美徳などではありません。単なる固定観念です。
現在の社会では、人間の質の大きな部分を「性」に求めています。
ところが、それでは、性集団への従属を人の本質だと見てしまい、個性に光が当てられません。

つまり、「彼は、彼だから○○なのだ」ではなく、「彼は、男だから○○なのだ」とイデオロギーとして見てしまっているのです。

だから、追求すべきは、性集団に属する人間としての「男らしさ」「女らしさ」ではなくて、個性を持った人間としての「人間らしさ」であるわけです。




意見


差出人:toybox2004
送信日時:2004/07/05(月) 14:49:08


ジェンダーフリーは、女性にも男性と同じように活躍できる場を!なんていう生やさしい思想ではありません。

google等で「ジェンダーフリー 本質」を検索してみればわかります。
中学校の公民授業でのレポートがありますので、一読をおすすめします。

http://www.jiyuu-shikan.org/teachers/hattori/0311.html

また、このレポートでは示されていませんが、ジェンダーフリー運動の本質は家族などの共同体破壊です。

これが進めば、さらに少子化は進み、数世代後には日本という国は存在しなくなる可能性があります。




意見


差出人:よー♀
送信日時:2004/06/30(水) 15:54:24


ジェンダーフリーという考え方に大方賛成です。

女性も男性同様に高学歴化が進んできた昨今、その力を社会に出て使いたいと思うのは当然でしょ?

そのときに、結婚について周りから圧力をかけられたりするのはいつも女性です。
結婚すれば当然妊娠、出産とつながっていき、仕事を中断せざる終えなくなります。

だいたい幼稚園に入るぐらいまでと考えて4年くらいブランクがあくんですよね?
そのとき、職場に復帰する体制が整っているとはどうしても思えないのです。
これがジェンダーだと思います。

男の人と同様に稼ぎがあるのだったら別に結婚にこだわる必要もないし、出産という尊い仕事をするならその後のケア(職場復帰がしやすい環境作りなど)をできる限りするべきです。

そういう行動が本当のジェンダーフリーだと思います。
いま社会(ネット上?)で言われているジェンダーフリーはセックスフリーと混同していると思います。




意見


差出人:
送信日時:2004/06/30(水) 02:47:07


ジェンダーフリーを訴える人は、トイレ・銭湯・温泉が全て共同利用になっても良いのでしょうか?

どちらかと言うと男女別にして女性の方が優遇されるケースも決して少なくないのですが、それを無くしてでも女性の皆さんはジェンダーフリーを望みますか?

レディースデー・女性割引料金廃止、婦人会廃止、女性週刊誌廃刊、がお望みですか?

それとも都合の良いところだけ一緒にしろと?

あきれてものも言えません。




意見


差出人:
送信日時:2004/06/14(月) 02:20:24


ジェンダーフリーはある一部の大沢真理東大教をはじめとするフェミニストらによって思想を植えつけられているにすぎません。

日本以外では、どこの国もジェンダーフリーは推進していませんし、アメリカなどは政策の失敗によって後悔をして、現在は人格教育に力を注いでいる状態です。

男女の生物学的にまで平等にしようとするのは行きすぎです。

ジェンダーフリーが進めば、日本は、父親も母親も、夫も妻も存在しないことになり、結婚する理由なんてなくなり、モラルも低下する一方です。

そうなれば、日本は崩壊するしかなくなります。
最近では、ジェンダーフリーを反対している自治体もかなり多くなってきました。




意見


差出人:29♂
送信日時:2004/01/13(火) 09:33:05


昨日、テレビでジェンダーフリーについての議論を見たので率直な考えを述べたいと思います。

正直申しましてこの“ジェンダーフリー”という考え方はあってないようなモノとしか思えません。

現に、男女それなりの“らしさ”という美徳が崩壊しつつある現代に於いて、そんな概念を植えつければ、“自由と我儘の履き違え”と同じような過ちを助長するだけのものでしかないとおもうからです。

周りを見渡せば、電車の中で化粧をする恥じらいのなさ…コンビ二の駐車場や駅の階段での座り込み…車が待っているのに小走りにならない図太さ…“ジェンダーフリー”という言葉さえしらないような若者が、知らずのうちに実践してる有様です。

要するに“人間そのものの質の低下”を個々に認識し、それを食い止めない限り世間はどこ吹く風です。

自由と我儘…プライドと自惚れ…その辺りの微妙な面を真摯に受け止めなければ、“ジェンダーフリー”という概念などなくても、“自分本位”というカタチで実を結ぶはずです。

そんな言葉に気を取られているぐらいなら、“和を以って貴しと為す”という“人間”のあるべき姿について見つめ直す事の方が先決ではないでしょうか…。




意見


差出人:DAKARA
送信日時:2003/12/12(金) 00:36:18


男女平等と言われてきていますが、なんでもかんでも平等にすると必ず男が悪く言われるのはなぜだろうと考えます。

男が言う「女らしくしろ」はセクハラなのに女が言う「男らしくしろ」はセクハラにはならないとか、専業主婦と専業主夫だったりとか、男女差はまだまだあるなと感じています。

教育を教える立場で見た場合、教える側の人間が自分の意見がなく男女平等を叫ぶだけで何も具体例を示していない。

その判断を小さな子に押し付けているだけのような気がします。
























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