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人間の残酷性って差別と関係している?人間とは残酷なのか? |
人間の残虐性と差別
とっかかり
差出人:papamama
送信日時:2001/11/09(金) 00:06:51
差別についてなんて高校以来考えたことがありません。
教育関係以外でこういう真面目な項目を真剣に取り上げているものを見たことがありませんでした。
ましてや、遊び中心のホームページでは初めて見かけました。
学校時代を思えば弱いものはいじめられていました。
テレビのマスコミも弱いものをいじめますよね。
人間の残酷性って差別と関係しているように思います。
意見
投稿者:joe
投稿日:2005/07/17(Sun) 13:55
題名:無題
「あいつは俺より仕事ができないのに同じ給料だ」
「彼はみんな(自分)より仕事できるのに同じ給料だ。上げてあげればいいのに」
差別のない世界 by共産主義
何を基準にして差別と呼ぶのか?
ある人には良い差別、一方では不満たらたら悪い差別。差別のない社会は全員同じ人間・同じ魂・同じ考え方。クローンですな。
人間生まれたら皆不平等である。差別を嫌うより、自分の生まれた環境をいかに満足し得るか。
私は背が低く、顔もたいしたことがない理由で女の子にふられたこと数知れず。これも当然差別だろう。
そのときは腹が立ったが、今はちゃんと結婚でき、30も過ぎれば背が低い方が居住空間が広く、大変便利である。差別を気にする人生などおもしろいのか?自分の不利も考え方一つで有利になる。
しかし、とんでもない差別に関しては別。不当に人種、住む地域だけで差別するのは改善すべきである。不当な差別をする方に回らないことである。明日は我が身。勝てば官軍の資本主義社会は、立場がすぐに逆転するものである。
意見
差出人:日子迫
送信日時:2004/10/17(日) 02:20:09
素晴らしい批評ありがとう。そうだよねイデオロギーって奴は個々人の人権を阻害する。人権擁護主義者だってそうだ。
でも客観性を失った、無意味で強烈な権力意思には戦うのが正常ってもんだ。だからといって団塊いじめになってはいけない。
悪者探しが大人になっても抜け切れないのは自分の親の育て方を疑うことも重要だろう。
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意見
差出人:しめじ
送信日時:2004/07/19(月) 03:49:21
差別者を差別する風潮について。 どうやら昨今の風潮として、差別する人はとんでもないやつで人間失格だ、人間のクズだ的な風潮があるようだ。
例えば、女なんて子供生んで家で家事してりゃいいんだよ、と断言する者がいたとするとひどく糾弾される。もちろん、女性をこのように断定的に差別することは、あまり宜しくない。不快感を感じる人も大勢いるだろう。しかし、この大勢いるという現状が「女性差別をするやつはいくらでも叩いてOK。人間性を否定してもOK」という免罪符になっているように思う。
差別は大抵マイノリティーや声の小さいものに対して行われる。つまり「いくら中傷したり侮辱したりしても、相手は何もいえないし反抗できない」という状況が差別を生む。まあ、これは極論すぎるけれど、大体こんな感じだ。力の強いものを差別する場合は、大勢が結託して数の力を使い差別したり、表にあらわさずに裏でこそこそ差別したりするが、これも相手が反抗できないようにする一つの形だと思う。例え数の劣勢を省みず反抗したとしても、差別する者達は自分が大多数の意見の側にいるというだけで、安心し、自分を肯定するから余り意味がない。
とここまで考えれば、差別とはいじめに近いということがよく分かる。相手に対する優越感。そして、反抗できない相手を好き放題に糾弾するサディスティックな快感。それが差別の原動力になるのだと思う。しかし、差別とはもちろんそこで留まらない。差別の恐ろしいところは、「それが当たり前」と差別者が認識してしまう所にある。差別するやつは酷いやつだ。だから、そいつらは人間として欠陥がある。自分とは違った醜い、そして恐ろしい人間だ。そんな風に差別者を認識するのだ。差別者を非難している内に自分までもが差別者になっているのだ。ミイラ取りがミイラになったとはこのことか。滑稽な話だ。
差別する者を糾弾する自分に正義があり、自分の言っている事は全て正しい、といつのまにか思うことは、結構恐ろしい事だ。そういう無意識の内に普通の人間が(まあ差別するやつもいたって普通の人間だけどダナ)自分が糾弾している相手と同じことをするようになるということは、冷静に自己分析する事の大切さを分からせてくれる。みっともないことをしたくなければ、常に冷めた頭で自分を省みることが大切だ。
余談だけど、戦時中の日本を悪とする風潮が(今じゃ大分収まってきたけど、それでも)ある。これも論理的に理知的に論を進めている内はいいが、相手が反抗しないとなると好い気になって無根拠に相手の人間性を否定したりすることがあった。多分今でもある。戦時中の日本は悪い悪いと言っていた団塊世代の奴らのおかげで、今の日本経済はメチャクチャになっちゃったんだYO!俺らが大人になるころは税金をたんまり取られ、お前等の尻拭いを必死こいてするんだぞ。お前等はそんな俺達の姿を、年金で自堕落に過ごしながらみるんだよな。好い気なもんだぜ。
などと糾弾される日も遠くないだろうな。そして、糾弾していた俺達の世代でどうにか経済が持ち直すと「俺達のおかげで日本経済は立ち直ったんだ」という自負心まで加わって、さらに強く糾弾するようになるかもしれない。じいさんばあさんに向かって。
別にこれは異常なことではないけど、やっぱり格好悪い。冷静になって自分のした事を見返した時、身もだえし罪悪感を感じ、どうにもできない感情にさいなまれるだろう。そうならないために、やっぱり感情に任せて他人を非難するということは、控えるべきだ。
なんか差別の話から遠ざかってるな。まあ、今回の結論はとうに出てる。差別者を非難するときは感情的にならないほうがいい。自分も差別者になっちゃうよ、ということだ。
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意見
差出人:フーン
送信日時:2004/07/05(月) 22:20:14
何であれ、差別されるというのはつらいものでね、これをやられると、なかなか立ち直れんよね。
抽象的なごたくはいいの。どうやって、気を取り直すか、それが問題だ。
自分だけ、○○ちゃんのお誕生会に呼んでくれなかった。
せっかくプレゼントまで用意していたのに。
あいつは呼ばれてボクは呼んでくれないのは何故だ?
明日、何にもなかったような顔をして、学校へ行けるかな?
お誕生会でなくても、何でもいいよ。自分だけプロジェクトに声が掛からなかった。
一番の適任はこの私なのに。
何故だ?
密かに、プランも用意していたのに。
あーあ、明日、仕事に行けるかな?
何にもなかったような顔をして・・・
そんなこと悩んだことがないのかね?威勢のいいこと言うそこのお人。
私は生理的に気にくわない奴でも、その人物の良いところをできるだけ認めたい。
それが、公平というものだと思うから。
しかし、それでも、差別はあるし、やってしまうこともある。
差別されている(と思っている)者への余計な助言。
差別に負けちゃお終い。
後は、自分でどうにかすることだね。
知らないよ。
そんな、どうしたらいいかなんて。
意見
差出人:you
送信日時:2004/05/18(火) 11:53:12
差別は、人や物に差を付けて分けます。男女、障害者、部落、人種、いろいろな差別がこの世には存在します。
でも、皆それぞれに違いを持っていて、それは個性であって差を付けては行けないのです。優劣を付けてはいけないのです。
人間は弱い生き物で自分より劣っているものを探しては、自分の方がマシだと安心するのです。でもそれは人間のエゴであります。
そういっている私もそうです、一度も差別したことのない人間ではありません。でもそれだからこそ、差別に対し、怒りを感じるのです。
一人一人がまず、心に手を当て、自分がそうだったらと、相手の立場に立ってみてください。
意見
差出人:ともき
送信日時:2004/05/15(土) 17:55:45
差別は必要です。必要悪っていうやつです。
結局はされる側の心の持ち様だったりするし、差別とは感じなくても、自分が虐げされるとかっていうことは誰にでもあるし。
差別する側は、自分よりわかりやすく低い人間を差別して、自分の存在をなるべく大きく納得させようとするんだから、自分にも身に覚えがあるはず・・・
意見
差出人:0
送信日時:2004/03/18(木) 23:52:02
ひとは生まれながらに平等じゃない
差があるのも差別があるのもあたりまえ
差別をおそれる?
それは本当の意味での個性を恐れているんじゃない?
たとえそこに優劣があろうとも劣るものの全てが負けているわけじゃない
個性がチカラならば僕たちは生まれながらに自分だけのチカラがある
恐れは必要ない
意見
差出人:wakaba
送信日時:2004/03/11(木) 23:05:31
差をつけて別ける
自分が特別な存在じゃないと生きられない
どこか違う自分を探す 探す サガス
見つけた自分は
特別な自分を探す者達の中に いた
見つけようとする必要なんてなく
そこが特別じゃない事を知るだけで
それだけで
差なんて無い事にきづく だろ?
意見
差出人:かたぎり
送信日時:2003/08/05(火) 18:26:07
人が差別やいじめをする目的は優越感という名の快感を得ることです。相手に不快感(劣等感)を与えることで相対的に自分が存在価値があるように思いたいんですね。
差別をしたい人にはさせてやるのが一番。彼らはそうする事が楽しく快感なのですから、被差別者はその事(彼らに快感を与えるきっかけとなっていること)を誇りにすら感じてよい。
彼らの無教養と偏見からくる価値観をわざわざ鵜呑みにして不快感を感じる必要はないし(感情の原因はそれを感じる人自身の価値観にある。差別語を使った人にあるのではない)、「それは差別だ!差別反対!」などとマジメに応じることは、そのこと自体が「差別的価値観の存在」を認めていることになります。
つまり「これこれは差別だ。社会から無くすべきである」などと言っている人自身が最も差別主義者である、ということです。
意見
差出人:れい
送信日時:2002/01/23(水) 00:19:20
難しい問題ですね。
私にも好き嫌いはあります。
自分の価値観で人の優劣を決めつけてみたりもします。
弱い者、ていうか、自分の惹かれるものを持たない人を、持つ人と同等に扱うことも見ることも・・・できません。
ただ、最低限のルールはありと思います。
それはあえて口にしない、攻撃に発展させない、公共の権利を奪わないということです。
で・・・差別とは、というと、いろんな意味での付き合いの幅、信用の幅、人と触れ合う幅を狭めることには違いないと思いますが・・・自分の感性の濃度を濃くすることでもあると思います。
意見
差出人:36
送信日時:2001/12/06(木) 07:17:12
あくまでも私の考えですが・・・差別がある原因のつまりは「好き」「嫌い」だと思います。
差別は良くない・・・と言うのが多くの印象だと理解していますが、人は差別意識を必ず持っています。
これは人が生き物として持つ生命力の為ではないかと想像しています。
差別が問題であるとすれば、差別によって起こる事(一方的に権利を奪われるとか・・・)では無いでしょうか?
【人間は残虐で差別するページ関連】
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